プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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生への衝動

 現代は技術の時代であり、それに随伴するあらゆる帰結は、数千年のうちに人間が労働方式、生活形式、思惟様式、象徴に関し身につけた何ものをも、全く存続を許さぬように思われる。……
 現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降……である。(ヤスパース)

 妻は前任地の頃から子育て支援の仕事をしている。特に無任所であった昨年度は、妻の働きで家計が支えられた。感謝である。その妻の働きを見ていて思うことがある。
 昨年、「保育園落ちた! 日本死ね!」の書き込みで、待機児童問題が大きく取り上げられた。保育所の絶対数が足りないことの深刻さをこの書き込みは見事に表現した。そして今年、保育所の数が足りないことと相まって、森友学園問題に象徴された《保育(者)の質》が深刻さを増している。

 私は前任地秋田で、関係する社会福祉法人が運営する保育所に時々顔を出していた。そして無任所の一年、妻の働きを通して、茨城の子供たちの様子に接した。今また小岩で、妻の仕事を通して子供たちの様子に接し始めた。そして思うのは、地域の別なく、子供たちが抱える問題、それは家族の問題なのだが、皆共通しているということである。そして子供たちを巡る問題は実に多様であり、深刻である。それはとりもなおさず母親、強いては家庭の問題である。

 長年、問題児といわれる子供たちと取り組まれた平井信義氏は、『失われた母性愛』の中でこんなことを言っている。「問題行動児の生育史をたどってみると、三歳までの母親とのスキンシップに大きな欠けがあることが共通して認められる。……母子関係が修復されると子供の問題行動も徐々に消えていった」と。そして平井氏は次のような提唱をされた。母性愛の喪失とか、母性分離、母性剥奪という言葉ではなく、「母性形成不全」という言葉を中心に据えるべきである。なぜなら、「母性愛は形成されるものであって、人間が生まれつき持っている特性ではない」からであると。

 平井氏の言葉を読みつつ、フロイトの弟子E・フロムの言葉が過ぎった。フロイトは「死への衝動」について語ったが、フロムは、ただ「死への衝動」だけでなく「生への衝動」についても語ろうとした。すなわちフロムによれば、人間はだれしもネクロフィラスなオリエンテーションとともにバイオフィラスなオリエンテーションを持っているという。「ネクロフィリア」(死への愛)とは、狭義には死体に対する性的な愛の倒錯現象をいうが、さらに一般的には死や汚物に対する執着、死体を前にしてそこにいつづけたい欲求、そこからさらに一般化して、破壊を賛美したい気持ちなどを意味する。異常な倒錯は別にしてもそうした一般的な下降的傾向が人間にはだれにも多少ともそなわっているのだという。
 これに対して「バイオフィリア」(生への愛)は、命を愛し、成長に関心と喜びを持ち、美しいものを求め、創造を賛美するという。この傾向もまた人間にはだれにも与えられているのである。そして、フロムによれば、これら両方のオリエンテーションは、それぞれ環境によって伝染する。生命を愛し、成長を喜び、美しいものを賛える人々の中で、人間は自分自身もまた命を愛する喜びを学ぶという。だから子供は、バイオフィラスなオリエンテーションが優勢な人々の間で育たなければならないのである。

 今、私たちが目の前に見ている世界、それは死への衝動が勝る世界である。こうした時代にあって、私たちは生への愛が優勢な人々をどこに見いだせるのだろうか。宗教改革者M・ルターは言う。「マリヤに係わることは信仰において私にも係わることであり、それはさらに、信仰において世界と歴史に係わることである。」
 母性を失ったこの時代にも希望がある。母性を失ったこの時代に、なお慰めがあり、光がある。もしこの時代が、十字架のキリストに啓示された神の愛を信じることができるならば、この時代でも、母性を持つことができるのである。
 パウロは言う。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして行くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてある通りである」(ロマ10:14−15)。
 十字架に上げられたイエス・キリストを目の前に描き出す聖餐共同体こそ!(Ⅰコリント11・26)、バイオフィラスなオリエンテーションなのである。

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