プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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ルカ19:28-44、ロマ11:25-36、ゼカリヤ9:1-10
讃美歌 352

 エルサレムが近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。……それは、神が訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19:41−42、44)
Ⅰ.不退転の決意
 主イエスのご受難を覚えるレントの歩みを積み重ね、きょう私たちは棕櫚の主日を迎えました。きょうより始まる一週間は、私たちキリスト者にとって最も〈聖なる週間〉、受難週です。
 私たちを義とするために、神の御子イエス・キリストが十字架に上げられたのです。黒人霊歌に、「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを」(讃美歌第二編177番)と歌われているように、私たちもこの礼拝で、御言と主の晩餐の祭儀によって、眼の前に描き出される十字架のキリストを見て、心に刻みつけたいと思います。

 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、ルカによる福音書19章28節以下です。ここには、大勢の群衆に囲まれた主イエスが、歓喜の渦の中をろばの子に乗ってエルサレムに入城された出来事が描かれています。しかもルカは、主イエスは「エルサレムに近づき、都が見えたとき」、「ああ、エルサレム」と言って涙を流されたと記したのです。つまりルカは、棕櫚の主日の祭儀を、喜びに沸き立つ群衆と、エルサレムのために泣く主イエスの対比で描いたのです。いったいルカは、この対比によって、私たちに何を伝えようとしたのでしょうか。

 ところで、主イエスがエルサレムに入城される記事は、四つの福音書全てに伝えられています。中でもマルコが伝える記事は、「非常に変わっている」と言われています。何が変わっているのかと言えば、主イエスをエルサレムに迎える群衆の感激は、エルサレムに入城される手前で跡形もなく消え去っているからです。
 確かに、地を揺るがすような民衆の叫びは響き渡りました。しかしマルコによれば、その熱狂はエルサレムの城外だけなのです。マルコはそれを次のように描いています。「こうして(とは)、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた」(11:11)。
 マルコが描く、主イエスのエルサレム入城を支配しているのは、群衆の喧騒ではなく、静寂なのです。主イエスはまるで巡礼者のひとりでもあるかのように、エルサレムに着くと、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回り、陽が落ちたので十二人を連れて、来た道を引き返し、ベタニアへ帰られたのです。ここには群衆の熱狂はなく、神殿はこれから起こる嵐の前の静けさに包まれ、そして夜となるのです。

 マルコが伝える記事が「非常に変わっている」ことに気づいたのはマタイです。マタイは、群衆の熱狂はエルサレムの城内で起こったと書き換えたのです。「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」(21:1-11)と。
 マタイは、主イエスがエルサレムに入場したとき、「都中の者」が騒いだと書き換えたことで、実は、新たな難題を持ち込んでしまいました。どういうことかと言えば、群衆は「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」を熱狂的に迎えたのです。当時、メシアを名乗る者にはローマ軍が差し向けられたのです。ところがここでは、群衆が熱狂的にナザレのイエスをメシアとして迎えているのに、ローマ軍は何もしていないのです! それは考えられないことです。
 マタイがこの記事に持ち込んだ難題に答えているのがルカです。ルカは、主イエスが民衆の歓喜の中をエルサレムに入城されると、39節、「ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った」という一文を付加したのです。「ファリサイ派のある人々」が主イエスにこう進言したのは、このままではローマ軍の介入は避けがたいとの危惧からではないか、との見方があります。

 実は、ルカは、以前にも同じような報告をしています。主イエスがガリラヤでの活動を終えられてエルサレムを目ざし、旅をしておられたときのことです。ヘロデがイエスを殺そうとしていることを知った「ファリサイ派の人々の何人か」が、主イエスに「ここを立ち去ってください」と進言したのです(13:31以下)。
 しかし主イエスは、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」と言って、立ち去ろりはしなかったのです。同じように、ここでも、群衆の熱狂的歓迎がご自分の身にもたらす危険を承知の上で、一歩も退かなかったのです。「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と言って! ここにはご自分の使命を遂行する主イエスの不退転の決意が表明されているのです。

Ⅱ.象徴預言
 それにしてもルカは、主イエスのこの不退転の決意に何を見たのでしょうか。事の次第を追ってみたいと思います。

 徴税人ザアカイの家を後にした主イエスは、先頭に立ってエルサレムへの道を進まれます。オリーブ山まで来られると、―そこからはエルサレムの町並みと神殿が一望できるのですが―、二人の弟子を使いに出して、ろばの子を調達させます。そして主イエスは、ろばの子に乗ってオリーブ山を下り、弟子たちの歓喜の渦の中をエルサレムに入られたのです。
 主イエスのこの行動は、旧約の預言者たちに見られる〈象徴預言(=行為による預言)〉といわれるものです(例えば、エレミヤ13:1-11)。この象徴行為には、いかなる神の思いが語られているのでしょうか。
 まず注目したいのは、ルカだけが描いている、主イエスが「オリーブ山」に立たれたとあることです。これとの関連で注目したいのは、預言者ゼカリヤの言葉です。ゼカリヤはバビロン捕囚後に活躍した預言者です。それは、「われわれの骨は枯れ、望みは突き、絶え果てる」といわれた、荒廃した時代でした。神はその荒れ果てた時代に、ゼカリヤを通して、メシアが荒野からオリーブ山を経て到来するという、神の大いなる救いの時の到来を語ったのです。「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」(14:4)と。そしてゼカリヤは言うのでます。
 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王は来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って!」(9:9)。

 福音書記者たちがそれぞれの視点で、ろばの子に乗ってエルサレムに入城する主イエスを迎える群衆の熱狂で描いたのは、このゼカリヤが語る預言の成就なのです。「イエスのエルサレム入城は、当時のメシア待望という背景のもとで始めて、イエスの生涯の最後の日々と関連する重要な意味をもつ」と言った人がいます。
 このとき群衆は、イスラエルの解放者、メシア、油注がれた者の到来を喜び迎えたのです。メシアの到来に歓喜する群衆に取り囲まれて、主イエスは今、オリーブ山からやって来られたのです。
 福音書記者たちがこの出来事に何を見たかは明らかです。バビロン捕囚の時、神殿の崩壊と共にイスラエルを去った「主の栄光」(エゼキエル10:18)が今、帰って来たのです。苦悩と審判の時代に終わりが来たのです。神は沈黙の封印を解き、かつての預言者たちの時と同じく、「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」によって再び語り始めたのです。
 神がナザレのイエスにおいて再び語り始めたとは、ヘブライ人への手紙によれば、今は「終わりの時代」であるということです。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました!」(1:1−2)。

Ⅲ. 平和への道
 「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」(14:4)。今は「終わりの時代」である。しかし、これ(ゼカリヤの預言の成就)が言われていることのすべてではありません。今や、「より大いなること」、「預言者以上の者」が現れたのです。主イエスにおいて始まったこと、それは中断していた過去の救いの歴史が再び進行し始めたというだけではないのです。かつての救済史をはるかに超えるものが現れたのです。言い換えますと、主イエスがもたらした救いは、終末論的な響きを帯びた、完成としての救いなのです。それは、世界が終わるという予感を超えた、黙示録の言葉で言えば、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」完成の時が始まったのです。

 私が神学生時代を過ごした滝野川教会の牧師であり、東神大の教授であった大木英夫先生は『信徒の友』に「終末論的に考えるということ」という一文を載せておられます。「終末論は常識に反する。もし終末論がもっとも終わりにおいてもっとも新しいものを見るとすれば、わたしたちの中には、大転換、大逆転がなければならない」。
 主イエスのエルサレム入城と共に始まる「受難物語」の主題、それはまさにこの「大転換、大逆転」にあるのではないでしょうか。ルカはわたしたちの中に「大転換、大逆転」が起こることを願いつつ、この記事を書いているのではないでしょうか。

 残る時間、私たちに起こった「大転換、大逆転」とは何かを見たいと思います。それは当時のメシア待望との比較によって鮮明になります。ルカは37節で、当時のユダヤ社会におけるメシア待望に言及しています。
 「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。」
 ルカは、弟子たちは「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と記したのです。その意味は、「行いにも言葉にも力ある預言者」イエスに、「ローマからの(すなわち苦しみからの)解放者」としての望みをかけていたということです。
 しかし、群衆の熱狂の中を行く主イエスの姿は「ローマからの解放者」、政治的メシアからは、あまりにもかけ離れていたのです。主イエスは勇ましい軍馬ではなく、ロバの子に乗っているのです。
 ろばの子に乗るメシアとは、何者なのでしょうか。それについてこんなことを言った人がいます。「この点はイザヤ11:1以下(「正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし」)や、42:1以下の(「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すこと」のない)平和の王に一層あてはまる」。

 この「平和の王」に焦点を当てたのがルカです。ルカは喜びに沸き立つ弟子たちの賛美の言葉を次のように伝えています。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
 ルカがここで描く弟子たちの讃美は、羊飼いたちのクリスマスで、天の軍勢が口にした讃美、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と呼応しています。
 今、待ち望まれたメシアがオリーブ山に立ち、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。民衆はこぞって、「天には平和、いと高きところには栄光」と賛美したのです。

 ところで、この民衆の讃美と、羊飼いたちのクリスマスで天の軍勢が歌った讃美の言葉には、微妙なニュアンスの違いがあります。天の軍勢は「地には平和」と歌ったのに、民衆は「天には平和」と叫んでいるのです。

 ろばの子に乗ってエルサレムに入城される柔和な王によって、地に平和がなった!と語られるべきではないでしょうか。しかし、ここでは平和も栄光も、すべて天に向けられているのです。なぜ? こんなことを言った人がいます。「2:14と違って天のみが平和のあるところと見られているのだから、平和の王の入城だけではなお神の平和が地に満ちるときは来ないという考え方が暗示されていると言えよう。」とても興味深い解説です。

 私はこう考えます。それについて重要な示唆を与えているのは、41節以下の、エルサレムのために泣く主イエスであると。み言葉にこうあります。
 「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた、『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。……それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである!』」

 ルカはこのまことに激烈な主イエスの言葉で何を表現したのでしょうか。そのことを思い巡らしていた時、パウロが、万民とイスラエルの救いについて語った次の言葉に導かれました。「『救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。』福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ロマ11:26b−29)。
 ルカはこのまことに激烈な主イエスの言葉で、エルサレムに対する、すなわち平和への道をわきまえない者たちに対する神の極みまでの愛を表現したのではないでしょうか。
 「最も深く神の心を見た」(キッテル)人と言われるエレミヤはこんな言葉を語っています。「エホバいひたまふ、エフライムは我が愛するところの子、悦ぶところの子ならずや、我彼にむかひて語る毎に彼を念はざるを得ず、是をもて我が膓かれの為に痛む!」(31:20)。
 エレミヤは言うのです。悔改めようとしないエフライムを打つたびに、神の腸は痛むと。まるで腸捻転を起こした時のように、神は身をよじりながら痛がっていると。そして私たちは、その神の痛みの極みを、十字架のキリストに見たのです。

 天は悲しみで満ちている! 地に平和が実現しない限り、天には平和はないのです。民衆が主イエスのエルサレム入城を熱狂的に称えた、「天には平和、いと高きところには栄光」は、エルサレムのために泣く神のみ子イエス・キリストの痛みによって実現するのです。つまりルカは、泣くイエスで、エルサレムに対する極みまでの神の愛、我が膓は痛むという愛を、ゴルゴダの十字架のキリストを描いたのです。

 主イエスのエルサレム入城をメシア王として迎える群衆の歓喜と、エルサレムのために泣く主イエスとの好対照に想いを巡らしているとき、キルケゴールの言葉が思い起こされました。キルケゴールは言います。「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり!』と歌っている。然しこれらのソプラノの下に恰も潜められたバスの如く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声が響く、曰く、『神は愛なり!』」

 ルカも、「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声……『神は愛なり!』」を聞いた一人なのです。十字架への道を歩む主イエスの不退転の決意、ゴルゴダの十字架のキリストによって地の平和は完成したのです。否、ゴルゴダの十字架のキリストによって地の平和が完成しただけではない。「天の平和」が完成したのです! 
 然り、地に平和が成就しない限り、天に平和はないのです。ルカはそれをすでに、迷い出た一匹の羊と失くした銀貨のたとえで語っていました。
 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある!」
 悔い改める一人の罪人が、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人よりも大きな喜びを天にもたらす! ここに終末論の、すなわち終わりの日の「大転換、大逆転」があるのです。神の御子イエス・キリストが十字架にあげられることによって、終末論的な、究極の「天の平和」が成就した!のです。神の御子イエス・キリストが十字架に上げられることで、私たちの罪はすべて贖われたのです。ハレルヤ!

祈り
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
 全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
 主よ、わたしは知っています。
 あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示して下さったのだということを。」
 主よ、これから行われる主の晩餐で、エルサレムのために泣く主イエスの心を知り、天の平和に与る者としてください。
 私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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