プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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ルカ24:13-35、ロマ3:21-26、民数記11:1-6
讃美歌 533 

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたいたではないか」と語り合った。(ルカ24:30-32)

Ⅰ.欲望の墓
 2017年の復活祭を迎えました。こうして信仰を同じくする主にある兄弟姉妹と共に復活祭を祝うことができることは大きな喜びです。前任地秋田楢山教会での最後の礼拝が復活祭でした。それから1年、無任所となり、ただ一人、聖書を読み続けました。そしてきょう、小岩教会の主任担任教師として復活祭の朝を迎えることができたのです。この礼拝で「イエスは生きている」と聞いて、共に喜びたいと思います。

 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はルカ福音書24章13節以下です。ここには死人のうちから甦られた主イエスが、二人の弟子に現われた時のことが伝えられています。
 ローマへの反逆者として十字架刑に処せられたナザレのイエスが、死より甦り、弟子たちに現われたのです。しかし、ここに流れている空気は、復活節のよろこびではありません。悲しみであり、失意であり、そして絶望です。この二人の弟子は、朝早く墓に行った婦人たちから、「イエスは生きている」と聞いたのです。そうであるのに彼らを支配していたのは、喜びではなく悲しみだったのです。彼らは失意のどん底にいたのです。
 ルカは、この二人の弟子の様子を次のように描いています。「イエス御自身が近づいて来て、一諸に歩き始め(た時)……二人は暗い(「悲しそうな」口語訳)顔」をしていたと。なぜ彼らは、「暗い顔」をしていたのでしょうか。甦られた主イエスが彼らの目の前に現れたのです。なのになぜ、二人は暗い顔をしていたのでしょうか。ルカはこう説明しています。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」

 弟子たちの目は遮られていた! 何に? そのことを思い巡らしていた時、民数記11章に伝えられたエピソードに導かれました。そこには奴隷の地エジプト(苦しみ)から解放されたイスラエルの民が、シナイ山で約一年、約束の地で生きるための教え(戒め)を受けた後、約束の地に向けて出発して間もない時にあった出来事が伝えられています。
 そのときイスラエルの民にあったのは、約束の地を望み見る旅人、寄留者の「喜びの声」(ヘブライ11・13)ではありませんでした。「民は主の耳に達するほど、激しく不満(泣き言)を言った」(11:1、4)のです。
 御言は、民の不満(泣き言)を次のように伝えています。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」(11:4−6)。
 「誰か肉を食べさせてくれないものか。どこを見回してもマナばかりで、何もない!」言い換えますと、見渡す限りマナがあるのです。マナとは、出エジプト記16章では、荒野をゆく民に与えられた「天からのパン」(16:4)と美しいことばで表現されています。朝目覚めると、露が蒸発して霜のように残ったのです。始めてそれを見た人々が不思議に思って発した言葉、「マン フー(何、何だろう)」が、その名「マナ」になったと言われています。
 つまり、マナとは、約束の地を目指して荒野を旅する神の民に与えられた天からのパン、神の恵みなのです。彼らの目の前には、見渡す限り〈マナ〉があったのです。しかし、彼らはそのマナ(神の恵み)に飽きてしまったのです。エジプトの肉鍋は「忘れられない」のに、神の恵みは「忘れられる」のです。ここには人間の欲望の激しさが描かれているのです。民数記の著者はその結末を、「キブロト・ハタアワ(欲望の墓)」という真に衝撃的な言葉で結びます。
 二人の弟子の目が遮られ、「イエスだとは分からなかった」とは、こういうことではないのか。言い換えますと、私たちもまた、「欲望の墓」の住人なのです。
 それにしても、なんとも奇妙な光景です。目の前には見渡す限りマナがあるだけではないのです。欲望の墓に埋もれた屍が累々と築かれているのです。
 
Ⅱ.罪の認識
 ところで、「二人の目が遮られて」とある「遮る」には、「捕える、捕縛する、支配する、固執する」といった意味があります。このとき弟子たちの心は神の恵み以外のものに捕えられていたのです。弟子たちの心は何に固執していたのでしょうか。
 それは、二人が語った言葉に端的に描かれています。19節以下、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」
 二人の弟子は、「行いにも言葉にも力ある預言者、ナザレのイエス」、つまり、ローマ(苦しみ)からの解放者、政治的メシアに捕えられていたのです。

 実は、「ナザレのイエス」に苦しみからの解放者、政治的メシアの期待をかけることは、主イエスが生きておられた頃から影のようにつきまとっていました。この岩の上に教会を建てるといわれたペトロでさえ、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しい叱責を受けたのです。
 そして事態は、今日、さらに深刻です。二千年に及ぶキリスト教の宣教の歴史を検証したデイヴィッド・ボッシュは、現代の教会が直面している危機についてこんなことを言っています。「社会福音派の神は、人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとんど変わらない、愛と憐れみという存在だった。……こういう風潮の中では、イエスに関する伝統的救済論的理解が消え去ってしまうことは、ごく当然のことであった。贖い主キリストは慈悲深い賢い教師イエス、あるいは霊的な天才でその内に人類の宗教的な様々な能力が十分に開花されたものになってしまった(ニーバー)。同情的イエスがカルバリーのキリスト(十字架のキリスト)に取って代わってしまった(ホプキンズ)」と。
 この置換はキリスト教を消滅させる喪失です。ウィリアム・ジェームズは『宗教的経験の諸相』でこんなことを言っています。「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつあるが、それらの教会においても、同じように抽象的な神性(人間の理想的属性を具現化した愛と憐れみという存在)が崇拝されたり、道徳的法則が究極的対象として信じられていたりするのである」と。

 苦しみからの解放者、政治的メシアへの期待が十字架で潰えたと、失意のどん底にある二人の弟子に、復活者はこう語りかけます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」この点が、キリスト教とあらゆる宗教との決定的な違いです。人間がもつ宗教は、人が困窮に陥ったとき、神の力を示すのです。その神は、人間が陥っている境遇に、無理やり引き寄せられた「神」にほかなりません。しかし聖書は、人間に、神の無力と苦難とを示すのです。キリスト教は、苦しむ神こそ、人間に助けを与えることができる神であるというのです。復活節のよろこび、それは、苦痛のあとにくるよろこびではないのです。束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出会いではないのです。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するもの(シモーヌ・ヴェイユ)なのです。

 このあと復活者は、メシアへの誤った期待ゆえに目が遮られていた二人の弟子に、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
 実は、現代の教会が直面している最も深刻な問題の一つは、聖書批評学が新約聖書に対して、重い問いを突き付けているところから発生している(P・T・フォーサイス)と言われます。「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」のは、聖書の学問的研究の結果なのです。
 ところで、十字架と復活を全面的に否定する聖書の学問的研究と、聖書を詳しく調べて、十字架と復活こそ福音の真髄であると語るルカとは何が違うのでしょうか。それは〈罪〉の認識です。罪との関係が切れては、恵みは意味をもたなくなるのです。罪の感覚の衰えは、キリスト教の中心理念を失うことにつながり、それはキリスト教を消滅させるのです。旧約聖書39巻が、どのページを開いても神の民イスラエルの罪の告発であるのは、それが、人の子が十字架に上げられる一日を理解する鍵だからです。

Ⅲ.神の義
 ルカは、復活者の口を通して、それをこう表現しました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち!」これは神の民の姿そのものではないか。復活者イエスは、二人の弟子に向かって、「汝、罪人なり!」と告発したのです。この二人はそれを受け入れることによって、何か決定的なことが起こったのです。ルカはそれを、この後、二人の弟子と復活者イエスがエマオの宿屋で食事をした場面で描いています。一緒に食事の席に着き、「イエス(が)パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とき、遮られていた「二人の目が開け、イエスだとわかった」というのです。然り、罪の認識が二人の目を開いたのです。
 ここで起こっていることは聖餐体験であるといわれています。主の晩餐が、十字架につけられたイエス・キリストを弟子たちの目の前に描き出したのです。主の晩餐で十字架のキリストを目の前に描き出される二人の弟子はこう語り合ったのです。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか!」

 いったい、復活者キリストはご自分について、二人の弟子に聖書全体から何を語られたのでしょうか。これとの関連で注目したいのは、ロマ書3章21節以下の御言です。そこには次のようにあります。
 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」(3:21−24)。 
 パウロはここで、律法と預言者によって立証されて、神の義が示されたと語ります。言い方を変えますと、神はご自分が義であることを示さねばならなかったというのです。
 旧約聖書において問われているのは、人間は救い得ない罪人であるということだけではないのです。神は義であるのか、が問われているのです。それを真正面から取り上げたのが「ヨブ記」です。
 ヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、惡を避けて生きていました。そのヨブが、一夜にして、すべての財産と10人いた子供たちをすべて失い、健康まで失ったのです。
 無垢な正しい人で、神を畏れ、惡を避けて生きていた人がなにゆえ言語を絶せる不幸に見舞われなければならないのか。その壮絶な苦しみの中でヨブは、神の義を問うのです。それはヨブが自分の生まれた日を呪うことから始まります。「わたしの生まれた日は消えうせよ。……その日は闇となれ!」ヨブは、創造主なる神を否定したのです。神は、闇が深淵の面にある混沌に向かって「光あれ」と言われたのです。しかしヨブは、「闇となれ!」と言ったのです。

 この後、ヨブが三人の友人と交わす議論は、神義論、つまり神は義であるのかという問題です。ここでは、これ以上深く触れることはできませんが、ヨブが壮絶な苦しみの中から発したこの問いに対する神の答え、それがゴルゴダの十字架で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだ、ナザレのイエスなのです。
 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とは、ヨブへの答えなのです。「この文書は千年にもわたっている。千年もの時が、そのことにあずかっている。……それは、新約聖書において達せられた目的に至る長い旅であった。新約聖書に書かれていることは、ある一日の出来事に凝縮できる。……その日とは、人の子が上げられた日である。」(ヴェスターマン)。

 パウロはこの千年の目的をこう表現しました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」 
 旧約において人間のあらゆる生活関連にとって「義」ほど中心的な意味をもつ概念は他に全くないといわれます。この概念は人間と神との関係のみならず、人間同士の取りとめもない争いというような関係に対する基準、否、人間と動物、自然環境との関係に対する基準でさえあるのです(フォン・ラート)。つまり、義はそのまま最高の生価値として、あらゆる生命が秩序ある状態にあるとき、依存しているものとして言い表すことができるのです。

 このシャロームを最も鮮烈に描いたのが、二人の弟子が主イエスと共にした食事です。「一諸に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだとわかった!」
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」ここに、二人の弟子の心がうちに燃えた理由があるのです。罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていた者が、キリスト・イエスの贖いによって、神の恵みにより、無償で義とされるというのです。言い換えますと、キリスト者は、主の晩餐において、「主と同じ姿に造りかえられ」るのです。来たるべき世界変革にあずかるのです。イザヤはこの祝福を預言してこう語りました。
  万軍の主はこの山で祝宴を開き
  すべての民に良い肉と古い酒を供される。
  主はこの山で
  すべての民の顔を包んでいた布と
  すべての国を覆っていた布を滅ぼし
  死を永久に滅ぼしてくださる。

 このイザヤの預言がゴルゴダの十字架で成就したのです。十字架に上げられた神、イエス・キリストを記念する主の晩餐で、イザヤの預言は、「いま、ここで」のこととして成就するのです。福音書記者ヨハネはそれをこう語りました。
 「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。……わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる!』」(6:53−56)。
 主の晩餐においてキリスト者は、「主と同じ姿に造りかえられ」るのです。この信仰の神秘に、心が内に燃えない者などいないのです!

祈り
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
 「愛する主よ、教えて下さい。
 全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流し尽くされたのですか。
 主よ、わたしは知っています。
 あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示しくださったのだということを。」
 主よ、わたしたちは、だれのところへ行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。みことばに聞き、主の晩餐に与るわたしたちの心を燃やし、主と同じ姿につくり替えてください。わたしたちの主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。

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