プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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マタイ16:13-23、Ⅰコリント11:23-30、創世記12:1-3
讃美歌 505

 イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、点上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17-19)

Ⅰ.早まった行為
 私たちはきょう、礼拝後、2017年度小岩教会の教会総会を行います。それに先立ってこの礼拝では、私が小岩教会に派遣されるにあたり、どのような祈りを与えられたかをお話ししたいと思います。結論を先に申しますと、それは、「この岩(=小岩)の上にわたしの教会を建てる」と言われた主イエスの言葉に集約されます。

 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、この言葉が語られたマタイ福音書16章13節以下です。ここには初代教会の筆頭として重んじられたペトロが、主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したことと、そのペトロに主イエスが、「サタン、引き下がれ」と言われた、まことに衝撃的な出来事が伝えられています。
 それは主イエスと弟子たちがフィリポ・カイサリア地方に行かれたときのことです。主イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったのです。同じ記事がマルコとルカにもありますが、マタイを礼拝のテキストとして選んだのは、マタイだけが、ペトロの上に教会を建てるという主イエスの言葉を伝えているからです。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける!」
 なんという祝福でしょうか。このような祝福を受けたペトロとは、いったい、何ものなのでしょうか。
 改めて言うまでもなく、ペトロの上に建つ教会、しかも「天の国の鍵」が授けられたとするこの御言は、ローマ・カトリック教会が拠って立つ土台です。ローマ・カトリック教会は教皇を、ペトロが授かった天国の鍵の継承者とみなすヒエラルキー(ピラミッド型の組織)によって成り立っているのです。

 歴史家アーノルド・トインビーは、「長い目で歴史をみる場合には、『教会』といえばわれわれはそのカトリック形態を意味せざるをえない」(『試練に立つ文明』)と断言しています。その理由として二つの基本的な制度、「ミサの聖餐」と、ローマ教皇を頂点とする「教階制」をあげています。そして言うのです。「プロテスタンティズムの歴史を顧みるとき、四百年の昔に、この甲冑をいちはやく脱ぎすてたプロテスタントの行為は早まった行為であったとも考えられましょう」と。
 トインビーとは異なる視点で、プロテスタントの「早まった行為」について語った人がいます。人間の深層心理を探究したユングです。
 __あの宗教改革以来、プロテスタンティズムは各種の分派の温床となるとともに、学問と技術のすみやかな発達を促し、これに目を奪われた人間の意識は、予測しがたいもろもろの力をそなえた無意識というものの存在を忘れてしまいました。……事態のこのような推移は運命的なものですから、私としては、その責任をプロテスタンティズムやルネサンスに帰することは致しますまい。けれども、ただ一つ動かしがたいことがあります。それはつまり、プロテスタントであると否との別なく、あらゆる現代人は、ローマ時代以来慎重に築き上げられ補強されてきた教会という防禦壁を広範囲にわたって失っており、この喪失の結果として、世界の破壊と創造との根源である灼熱地帯へ一歩近づいているということです(『心理学と宗教』)。

 現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降にあるのです。ユングはその原因を宗教改革に見たのです。あまりにも広範囲にわたって「教会という防禦壁」を失った結果、世界は今、「破壊と創造との根源である灼熱地帯へ一歩近づいている」と。
 今年、2017年は宗教改革500周年にあたります。プロテスタント教会は、広範囲にわたって失われた「教会という防禦壁」を再建できるでしょうか。「不安と恐怖の波にゆり動かされ、押しひたされて」いる現代人の、“憩いの場、癒しの場”になれるでしょうか。すべては、主イエスがペトロに授けた「天の国の鍵」、つまり「教会の本質」は何であるかを知り、その本質に忠実であることにかかっているのではないでしょうか。

Ⅱ. 人の子の秘義
 そこでまず注目したいのは、この一連の記事の発端となった主イエスの問い、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」です。主イエスに対する様々な称号の中で「人の子」は最も重要であると言われています。人の子イエスとは何ものなのでしょうか。
 この〈人の子〉称号で注目したいのはダニエル書7章の次の言葉です。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」ダニエルによれば、「人の子」は「かの日」に、すなわち終末の完成の日に姿を現わすのです。
 このダニエル書と同じ黙示文学で、「偽典」(エチオピヤ語訳エノク書と第四エズラ書)とされるものの中にも、「人の子」についての言及があります。それによりますと、「人の子」は山を下り、平和の軍隊を呼び寄せ、義人と聖徒たちの支え、もろもろの民を照らす光、悲しむ者にとっての希望であり、全世界が彼の前に跪き、義人と選ばれた人々は彼と共に食卓につき、生活を共にするのです。この〈人の子〉についてのすべての陳述の根底であり出発点が、ダニエル書7章13節、「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み」出た、なのです。

 このダニエル書7章で語られる〈人の子〉に関する一連の記事の中で注目したいのは、ダニエルが見た幻では単数で描かれる〈人の子〉が、すぐその後でダニエルがこの幻の意味を問うたとき、側にいた人は〈人の子〉の意味を複数形で答えていることです。「いと高き者の聖者ら」(18)、また「いと高き方の聖なる民」(27)と。
 私は、マタイがこの段落を「人の子」の問いで始め、ペトロに「天の国の鍵」が授けられたで描いていることを読み解く鍵がここにあるのではないかと考えています。鍵の権能は元来、ダニエルが語るように「人の子」の手に握られた大権です。その人の子の手に握られている大権を、主イエスはペトロに委ねたのです。そしてローマ・カトリック教会はペトロに委ねられた「鍵」の権能は、ローマ教皇に継承されると解釈したのです。それは正典聖書の意に適う解釈でしょうか。

 私はマタイ福音書に「教会」という言葉があることの意味は絶大であると考えています。もしマタイに「教会」という言葉がなければ、カトリック教会の解釈の是非を問う基準をわたしたちは持たないからです。
 福音書の中でただひとり「教会」という言葉を用いているマタイは、ペトロに委ねられた「鍵」の権能をどのように考えていたのでしょうか。そのことについて重要な示唆を与えているのはマタイ福音書18章18節以下です。そこでは、罪を悔い改めない兄弟を巡り、その取り扱いが問題となり、「教会」(17)という言葉が使われます。そして、ペトロに与えられた鍵の権能に言及するのです。しかもここでは、複数形で語られるのです。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。
 マタイはここで、ペトロに与えられた鍵の権能、「〈あなた〉が解き、かつ結ぶ」権能を、「〈あなたがた〉が解き、かつ結ぶ」、つまり教会にあるとしたのです。もう少し丁寧な言い方をしますと、悔い改めようとしない兄弟のために心を合わせて祈る「二人または三人」の、キリストにある者の交わりに「天の国の鍵」の権能がある、としたのです。

 悔い改めようとしない兄弟のために心を合わせて祈る「二人または三人」の、キリストにある者たちの交わりに天の国の鍵の権能がある!と言われて、ここで反応したのもペトロでした。ペトロは、主イエスにこう問うのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 このペトロの問いに主イエスは、まことに厳かに、こうお答えになります。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい!」主イエスは、罪の赦しには際限はないと言われたのです。
 主イエスのこの言葉には二つの意味が含まれています。一つは、ここにおいて、つまり罪を悔い改めようとしない兄弟のために心を合わせて祈る二人または三人の交わり(=教会)において、77倍の復讐を誓ったカインの末裔レメクの復讐(創世記4・24)に終止符が打たれるということです。「天の国の鍵」を持つ教会には、もはや復讐はない!のです。現代は復讐に明け暮れる世界です。この世界にあって、教会は、憩いの場であり、癒しの場なのです。
 主イエスのこの言葉のもう一つの意味は、罪の赦しは人間にできることではないということです。それを主イエスは一万タラントンの借金を許されながら、友人に貸した百デナリオンを許せない家来の譬えで描いて見せたのです。
 
Ⅲ. 教会再建への道
 主イエスがペトロに授けた「天の国の鍵」、それは、赦しには際限がないということであり、それゆえ、その赦しは人間にできることではないのです。
 問題は、今日、教会に委ねられた「鍵」は錆ついているということです。「教会」という防御壁を広範囲にわたって失っているのです。それは「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」プロテスタント教会においてだけではありません。鍵の権能を教皇の手に委ねたローマ・カトリック教会においても、天の国の鍵は錆びついているのです。 
 私たちは、広範囲にわたって失われた「教会という防禦壁」を再建できるでしょうか。その答えは、この後、人の子の受難と死と復活を巡ってなされた、主イエスとペトロとのやり取りにあります。
 主イエスはペトロに「天の国の鍵」を授けると、御自分の身に起こることを語り始めたのです。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」主イエスの受難と死と復活に、天の国の鍵の秘義があるのです。

 問題はこの後に起きます。これを聞くとペトロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。その時ペトロは、思いも及ばぬ言葉を主イエスから聞くのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている!」 
 主イエスから、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」といわれたペトロが、すぐその後で、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と叱責されているのです。
 このときの主イエスの言葉の厳しさが、ここで起こっている事態の真相を浮き彫りにしています。この厳しい言葉に示された、ただならぬ烈しい感情の動きは、主イエスを襲った試練がその内面の最も深いところにかかわっていることを語っているのです。
 「人の子」は十字架への道を行く! なぜなら、同情的イエスでは、天の国の鍵、際限のない罪の赦しにはならない!のです。天の門は開かれないのです。言い換えますと、十字架への道を行く「人の子」イエスは、ダニエルが描く「人の子」では捉えきれないのです。ダニエル書(7章13節)から来ている「人の子」は栄光の言葉だからです。
 「人の子」の栄光を語るダニエル書7章だけでは、主イエスの使命意識の中核にあるものに到達することはできないのです。それはもっと深いところ、イザヤ書53章にあるのです。「だれがわれわれの聞いたことを、信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。……彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ」たと語られた〈苦難の僕〉です。
 この苦難の僕イエスにおいて、天の門は開かれるのです。解きかつ結ぶ天の国の鍵、際限のない罪の赦しは十字架のキリストにあるのです。

 歴史家は言います。ペトロの鍵の権能を継承するローマ・カトリック教会は、「われわれの知るいかなる制度よりも強靭であり、永続的であり、それゆえにまたもっとも将来の永続性に富み―最後まで生き延びるものではないか」と。
 しかし正典聖書は言うのです。十字架の権能こそ、人間の手で造られたいかなる制度よりも強靭であり、永続的であり、それゆえにまたもっとも将来の永続性に富む、と。そしてマタイは、この十字架の権能を、罪を悔い改めない兄弟のために心を合わせて祈る二人または三人の交わりにあるとしたのです。
 罪を悔い改めない兄弟のために心を合わせて祈る二人または三人の交わり、つまり教会の本質とは何か。このことについて、わたしの知る限り、最も優れた注解を著したのはボンヘッファーです。ボンヘッファーは言います。
 __教会は、宗教的な退修会や遍歴や、修道院やその他の共同体の体験において経験されうるものではなく、わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがその代理的行為においてわれわれを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験されるのである、と。
 そしてボンヘッファーはこう言葉を続けます。
 __教会は恐らく、大都市における聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、最も確信をもって現われ出るであろう。__それは人が宗教的共同体の概念をもってしては近づくことのできないものなのです。

 「天の国の鍵」の秘義は聖餐共同体にある! それは宗教的共同体の概念をもってしては近づくことのできないもの。「聖晩餐を守る集まり」、教会の本質とは何か。それを紐解く鍵は、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたペトロが、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と言われていることにあるように思います。
 わたしは、この事態の深刻さに匹敵するのは創世記12章1節以下の、アブラハムの召命であると考えています。そこでは、死んだも同然のアブラハムが、つまり人間的にはすべての可能性が失せたアブラハムが、神に呪われ、何も生み出し得ない死の世界(創世記11:27-32)を、命に満ちた世界にする「祝福の源」として選ばれたことが語られています。「わたしは……あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように(=わたしの教会を建てる)。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う(=天の国の鍵)。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
 このアブラハムの選びについては、詳しいことはその時に学ぶとして、きょうの御言との関連で注目したいのは、イスラエルは自らの在り方を、この創世記12・1−3に照らして繰り返し検討したということです。エレミヤは4・1−2で、世界の祝福はまことのイスラエルへの悔改めによるとし、またゼカリヤは自らがのろいから救われることによるとしたのです(8:13)。
 つまり、教会は深い悔い改めなしに、天の国の鍵を行使することはできないのです。陰府の力もそれに打ち勝つことができない「天の国の鍵」を授けられたペトロが、その直後、「サタン、引き下がれ」と叱責されているのはこのことと関連しているのではないか。
 言い換えますと、十字架に躓かないキリスト者は、天の国の鍵を正しく行使することはできないのです。教会は、わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがその代理的行為においてわれわれを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験されるのです。
 然り、教会は恐らく、大都市における聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、最も確信をもって現われ出るのです。罪を悔い改めない兄弟のために心を合わせて祈る二人または三人の交わり、「ミサの聖餐」こそ、「われわれの知るいかなる制度よりも強靭であり、永続的であり、それゆえにまたもっとも将来の永続性に富み―最後まで生き延びるもの」なのです。

 2017年、宗教改革500周年の年、広範囲にわたって失われた教会という防禦壁を再建するために、この岩(=小岩)の上に「聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)」を築くために、私は派遣されたのです。
 「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12:32)。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである!」(Ⅰコリント11:26)。

 私たちも、イエス・キリストが十字架につけられた姿で目の前に描き出される主の晩餐で、エズラのように深い悔い改めをもって、ひざまずきたいと思います。

祈り
 これは、なんという恐るべきところか。これは神の家である。これは天の門である。
 わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪咎は大きく天にまで達しています。先祖の時代から今日まで、わたしたちは大きな罪の中にあります。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、
罪深い者として、御前にぬかずいております。
 主よ、わたしたちは、だれのところへ行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。深い悔い改めをもって主の食卓に与る者としてください。
 私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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