プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記1:24-31、ヨハネ1:10-14、フィリピ2:6-11
讃美歌:529

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして産みの魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

Ⅰ. 信仰の眼
 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は創世記1章24節以下、天地創造の六日目の物語です。御言はそれを次のように結んでいます。
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」。
 創世記1章の記者は、すべての神の創造の業を、「極めて良かった」と結んだのです。それは、「まったく完全であった」と訳すこともできます。何一つ欠けるものがなく、何一つ余分なもののない、全てが目的にかなった調和ある世界が造られたのです。つまり造られたもの全てが美しいのです。

 ところで、この天地創造の六日目を結ぶ言葉は、私たちが今、現に見ている世界とはまことに対照的です。私たちが今、現に生きている世界は極めて醜悪だからです。造られたもの全てが美しいと語るこの人は、私たちとは無縁の世界で生きていたのでしょうか。なんの苦しみも嘆きも涙もない世界を生きていたのでしょうか。そうではありません。この人が生きていた時代、それは敗戦後のさまざまな混乱と苦難に満ちたバビロン捕囚の時代なのです。
 それがどのような時代であったかを「哀歌」の詩人が伝えています。「哀歌」は、1−4章が〈いろは歌〉になっています。それは、たんなる技巧ではありません。文字を始めから終わりまで順序よく並べることで、苦悩のすべてを語ろうとしているのです。つまり、形式自体が痛みの深さと徹底性を表現しているのです。そして、その極みが、「女がその胎の実を、育てた子を食い物にしている」(2:20、4:10)という言葉です。
 人肉を食う。それは、人間がもはや人間でなくなる時! そこには嘔吐を催すような光景が繰り広げられていたのです。この人が書いた「レビ記」にも、人肉を食うという凄惨な表現があります。「わたしは激しい怒りをもって立ち向かい、あなたたちの罪に七倍の懲らしめを加える。あなたたちは自分の息子や娘の肉を食べるようになる」(26:28-29)。
 この人が見ていた世界も、私たちが今、現に見ている死の世界、痛みの世界なのです。その世界を見つめつつ、この人は、神がお造りになったものは「極めて良かった(造られたもの全てが美しい)」と結んだのです。なぜ?
 信仰はどのような深刻な事態の背後にも神の愛のみ手をみる、といった人がいます(佐藤敏夫)。信仰は人生の苦難の背後にも神の愛の支配をみるのです。このような透徹した眼をもって現実を見、現象の背後にあるものを透視するものこそ信仰なのです。

 このことを思いめぐらしていたとき、四半世紀前、銀座教会で副牧師をしていた時、富士見町教会の信徒の献金でイスラエルを旅した時のことを思い出しました。
 イスラエルを旅する者が誰しも気づくのは、フロック・コートに山高帽をかぶり、ほおひげをきれいに編んだ男子の一団です。この人たちは東欧からナチスの迫害などで追われてきた極めて保守的なユダヤ教徒だといわれています。彼らの目はとても美しいのです。ある人はあの目はこの世を見ている目ではない。はるか遠くを見ている目だ、と感嘆しました。この上なく純な希望の瞳! それで彼らは苦悩の歴史を耐え抜いてきたのです。
 創世記1章の記者もまた、この上なく純な希望の瞳で、苦悩の歴史に耐えていたのではないか。その信仰の眼で現象の背後にあるものを透視したのが、〈神の像〉としての人間ではないのか。

Ⅱ. 救済論的〈神の像〉
 天地創造の六日目、神の創造の業の最高の秘義、人間の創造を描くこの箇所で、創世記1章の語り口は荘重なリズムを見せます。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と。こう言って「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と、三度も「創造された」を繰り返すのです。
 天地創造の始めから、神が言われると、そのようになった、と繰り返された創造の業が、ここで、何か全く新しいものにとって代わったのです。創造の頂上に立つ人間は、他の被造物のように、言葉によって造られたのではなく、神がその心の底で厳粛に決断することによって創られたのです。神は並み居る天の軍勢を前に、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたのです。
 それにしてもなぜ、この人は、人肉を食うという、もはや人間が人間でなくなるような呪われた現実の中で、人間は神にかたどり、神に似せて造られたと語れたのでしょうか。苦悩の歴史を耐え抜いたこの人の瞳に映った「神の像」とはいかなるものなのでしょうか。
 
 御言は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」の後、こう語ります。「そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
 神が六日間で造られたものをすべて「支配する」。同じ言葉が28節でもくり返されていることから分かりますように、ここに、神が人間に賦与した〈神の像〉があると見てよいのではないでしょか。
 これに関して、次のように言った人がいます。当時、地上の王たちは帝国内に自分の像を大権のしるしとして建てた。そのように、神は造られた世界に支配権を維持し、貫徹するために、人間をご自分の大権のしるしとして世界の中に置かれたのである、と。
 神が人間に賦与した神の像とは、神がこの世界に支配圏を維持し、貫徹するためのものなのでしょうか。この解釈の是非を問う鍵は、この後に語られた、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」にあるように思います。
 実は、この言葉、「産めよ、増えよ」は、環境破壊を〈上から〉保証する、聖書的・ユダヤ教的・キリスト教的倫理の原罪的言葉であると批判する人がいます_特に自然との調和を根本義とする仏教徒から。人間に賦与された神の像は、神が世界に支配圏を維持し、貫徹するためであるという見方はこの批判にどう答えることができるのでしょうか。
 では、神はどのような意図で「産めよ、増えよ」と語られたのでしょうか。実は、同じ言葉がエレミヤ(3:16、23:3)とエゼキエル(36:11)にも使われています。そこには共通の特徴が見られます。第一に、ともに捕囚期という崩壊・滅亡・破局の時代に語られていること、第二に、ともに捕囚からの回復を告げているということです。
 祭司記者の「産めよ、増えよ」も、捕囚期という崩壊の時代に、世界とイスラエルの民に向かって語られた〈回復〉の言葉と解してよいのではないでしょうか。
 捕囚期とは、「産めよ」と言われても、何も生み出す意欲もない、不毛の時代。「増えよ」に反して、歴史と伝統を継承する者の出ない時代。「満ちよ」ではなく、過疎化し、荒れるにまかされた時代。「地を従わせよ」に反して、無気力に地に屈伏している時代だったのです。創世記1章28節は、こうした〈呪われた〉世界に対する「祝福」の詞なのです。「神は彼らを祝福して言われた」のです。
 祝福とは生命力です。人間に未来の時を信じさせる、未来に向かって働く希望の力です。つまり、国が滅び、契約は破棄され、伝統は見失われ、生は無意味に見えた崩壊期に、この人は人間の創造の背後に、強烈な神の決意の存在を主張したのです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と語る祝福の詞の背後にあるのは、神の烈しい〈決意〉であり、未来を開かねばやまぬ、神の強い〈意志〉ではないでしょうか。

 言い換えますと、人肉を食うという呪われた人間に救いはあるのか? この人間を救う神はいるのか? それが祭司記者の関心事なのです。つまり、祭司記者が創世記1章で描いているのは、世界はどのようにして成ったのかという宇宙生成譚、ないし進化論ではなく、神の救いの問題なのです。ということは、わたしたちは〈神の像〉を、救済論の視点からとらえる必要があるということです。救済論的視点から見た〈神の像〉とは何か。結論を先に言えば、それは「〈低きにくだる神〉の像」です。

Ⅲ.美の極みとしての神の像
 これとの関連で注目したいのは、先ほども触れた「哀歌」です。哀歌の3章20節にこんな言葉があります。「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」。これは「写本家の訂正」といわれる変更が加えられた訳であることが分っています。写本家の訂正を経ない本文は、直訳しますと、「あなたの魂はわたしの上に沈む」です。つまり哀歌3章20節は、神御自身が苦悩にのたうちまわるわたしの上に身を沈めて、うなだれ、嘆き悲しむ、とうたうのです。
 この神が人間の上に身を沈め、うなだれるという描写は、早くから聖書を読み、書き写す者たちが耐え難いとした強烈な描写なのです。だから写本家は訂正したのです。しかし、聖書を読む者たちが耐え難いとした神が、聖書の神なのです。わたしは、このまことに耐え難い、神の自己放棄に至るまでの下降、低きにくだる神が、救済論的視点から見た〈神の像〉ではないかと考えています。
 
 そしてこの、まことに耐え難い神の自己放棄の極地にキリストの十字架が立っているのです。このことを見事に表現したのが、フィリピの信徒への手紙が伝える初代教会の讃美歌です。それは次のように謳います。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした!」 
 聖書の神は、独り子を十字架で殺すまでに激しい神なのです。イエス・キリストは、苦悩にのたうちまわる者の上に身を沈めてくださる神なのです。

 実に興味深いことに、聖書の民は、神の自己放棄に至るまでの下降に「美」を見たといわれます。何を美しいと感じるかは、民族や文化によって異なります。聖書の民は、神の自己放棄に至るまでの下降に美を見たというのです。「最高の美は、ヤハウェがイスラエルの歴史的実存の中へと降下したことである」(フォン・ラート)。イスラエルの歴史的実存とは、人肉を食うほどの罪の実存のことです。嘔吐を催すような人間の罪の真只中に神は降ってきて、その上に身を沈めてくださる! そこに聖書の民は最高の美を見たというのです。
 福音書記者ヨハネによれば、初めにあった言は、言を理解しない、認めない、受け入れない者の間に受肉したのです。ヨハネはこの受肉に、独り子としての栄光を見たというのです。美があると語るのです。
 聖書が語る美は、それだけではありません。救済の恵みもまた美をもつのです。人間が自らを神の好意の対象と認めることが許されたとき、神が人間の「頭を持ち上げられた」とき、最後には人間自身が美しく登場するのです。 
 つまり、十字架のキリストにおいて、神の自己放棄という最高の美が輝き出るだけではないのです。十字架のキリストによって「人間自身が美しく登場する」のです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである!」この「新しく造られた者」、救済の恵みこそ、創世記1章の記者が語る〈神の像〉としての人間ではないのか。

 フィリピ書の著者は、イエス・キリストの自己放棄によって与えられた新しい人の新しさがどれほどのものであるのかを、こう描いています。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。
 ここでは「天上のもの、地上のもの」と並んで、「地下のもの」が神賛美に加わっているのです。賛美を主題とする詩編115編にこんな言葉があります。「主を賛美するのは死者ではない。沈黙の国へ去った人々ではない!」(17)。旧約の世界にあって、決して神を賛美することのなかった「地下のもの」が神を賛美するものになったのです。
 この驚くべき世界を誰の目にも見える仕方で表現しているのが「主の晩餐」なのです。ルター派の式文には、「この食卓を囲む半円には、目に見えない聖徒たちがいます」という一文があります。

 わたしたちは、この礼拝で、主の晩餐で、決して神をほめたたえることがないとされた「地下のもの」が神をほめたたえるという、驚くべき新しい世界を先取りしているのです。主の食卓を囲む半円には、目に見えない聖徒たちがいるのです。礼拝(=ミサ聖餐)は、被造物を虚無から解放する、栄光の自由への希望の時なのです。礼拝から見た世界には希望があるのです。

(祈り)
 これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。
 愛する主よ、教えて下さい。全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。主よ、わたしは知っています。あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示して下さったのだということを。
 主よ、わたしたちは、だれのところへ行きましょう。永遠の命の糧をもっているのはあなたです。深い悔い改めをもって主の食卓に与る者としてください。
 私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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