プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司ザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。(ルカ1:5−7)

 ルカは自らの福音書を書くのに、マルコを土台とし、その上に自らが集めた資料を重ねている。主イエスと洗礼者ヨハネの幼児期物語はルカ独自の資料である。ルカが幼児期物語を書いた目的は、郷里ナザレの会堂で起こった出来事で明らかになる(4:16−30)。詳細はその時に触れるとして、ここでは主イエスの誕生に先立つ洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語の中から三つのことに触れておきたい。第一は、ヨハネの父と母である。
 「エリヤの霊と力」を持つメシアの先駆者ヨハネはザカリアを父とし、エリサベトを母として生を受ける。二人は、ルカによればイスラエルの宗教的伝統の中心、即ち祭司の家系に生まれ、育った(5)。特に、母エリサベトは「アロン家の娘」と紹介される。アロンとは、モーセの兄で、モーセと共にエジプトで苦しむイスラエルの民を解放し、約束の地で生きる基礎を築いた人である。ルカは、ヨハネはその血筋に属すると説明する。言い換えれば、ヨハネは出エジプト以来の神の約束に対する成就への期待を一身に背負って生を受けたのである。

 ルカは、そのヨハネの父母、ザカリアとエリサベトの人となりを次のように紹介する。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟をすべて守り、非のうちどころがなかった」(6)。「神の前に正しい人で、主の掟をすべて守り、非のうちどころがない」とは、「律法の義については落ち度のない者」(ピリピ3:6)ということである。
 読者は、この言葉の後に何を期待するだろうか。それはヨブ記の冒頭に記されている神の祝福ではないのか。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。ヨブもまた、ザカリアとエリサベトのように神の前に正しい人で、主の掟をすべて守る、非のうちどころのない者だったのである。その報いとして著者はヨブを次のように描くのである。「彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」(1:1−3)。
 しかし、ルカがこの後に記す一句は、ヨブとは正反対の、まるで神の〈呪い〉である。「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」(7)。「不妊」という言葉は強い意味を持つ言葉である。それがどれほどの苦しみであったかをルカは、子を宿したことを知ったエリサベトの歓喜で見事に表現している。エリサベトはこう言ったのである。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださった!」「恥」とは、取って食べてはならないと言われた「善悪を知る木の実」を取って食べた男と女が最初にしめした反応、つまり神への反逆の最も深いところにある感情である。

 不妊、それは自分の力ではどうにもならない現実の壁である。神の救いの業は、アブラハムとサラがそうであったように、この現実の壁を打ち壊すところから始まるのである。パウロはその秘義をアブラハムの信仰によせてこう語った。「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神!」(ロマ4:17)。
 神の救いの業は人間の協働を必要としないのである。否、人間の協働を必要としないだけではない。年老いた自分と不妊の妻の間に子供が生まれることなどあるわけがないとして、口が利けなくなったザカリアの不信を超えて、神の業は実現するのである。この神の救いの業の頂点に、キリストの十字架__「隠されていた、神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)__がある。それは、信じる者すべてに与えられる神の恵みであり、人間の業による救い、応報思想を廃棄する。

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