プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


最新記事


月別アーカイブ


カテゴリ


 恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。……彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、……準備のできた民を主のために用意する。(ルカ1:13、17)

 ルカは福音書の冒頭で「わたしたちの間に成就された出来事」(1:1協会訳)、即ちイエス・キリストの十字架の死と復活について詳しく調べたので、順序正しく書くと言い、洗礼者ヨハネの誕生物語から書き始める。なぜルカは、洗礼者ヨハネの誕生物語から書き始めたのか。これは「一つの新しい試み」である、と言った人がいる。

 聖書の時代を生きた歴史家ヨセフスはヨハネを、ユダヤ教の最も純粋な、特別に高貴な現れとして賞讃している(『古代誌』)。その賞賛の背後には、キリスト教会がヨハネを主イエスの先駆者とみなしたことに対する反発が働いているといわれる。
 もっとも、ヨハネに対して高い評価を下しているのはヨセフスだけではない。主イエスがヨハネを非常に高く評価しているのである。ヨハネに対する主イエスの評価は〈熱狂的〉とさえ言える。主イエスはヨハネの洗礼を「天からであった」といい(マルコ11:30)、またヨハネを「預言者以上の者」(ルカ7:26)、否、「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人はいない(最大の者)」(7:28)とさえ言っているのである。
 ルカは主イエスの宣教を記すのに、この洗礼者ヨハネの誕生から書き始めたのである。このルカの「新しい試み」とは何か。そのことについてエレミスが一つの示唆を与えてくれる。エレミアスはこんなことを言っている。「イエスの宣教を叙述する際最も重要なことは、どこに出発点をおくかということである」。
 エレミアスによると、比較的最近までマタイ4:17のみ言葉—〔その時から、イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」—によって、主イエスは回心の呼びかけを携えて登場したとみなされていた。しかしこの聖句は、以下の二つの理由によって主イエスの宣教の出発点とすることはできないと言う。一つは、これは「まとめ句」であるということ、そしてもう一つは、マタイ(だけ)が全く同じ言葉で洗礼者ヨハネの説教を総括していること(3:2)である。
 因みに、このマタイ4:17の基になっているマルコ1:15では、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とある。改めて言うまでもなく、神の国の到来は主イエスの宣教の全体を貫いているメッセージである。しかし、神の国が近づいたというこの告知を、主イエスの宣教の出発点とすることはできない。ここから始めた場合、では、どのようにして主イエスは民衆の前に立ち、福音を告知することになったのかという問いがなおざりにされてしまうからである。

 主イエスの宣教に先立つ何かがあったのである。その何か、についてエレミアスは言う。問題は、この第一のもの、主イエスの宣教に先立つもの、最も深い神秘であるところのものを歴史的に捉えることができるかどうかである、と。それは曰く、「言うべからざるもの」、故に、ここでは細心の注意と最大の用心がなければ、問いかけることができないと。

 エレミアスのこの言葉は、主イエスがヨハネから洗礼を受けたことについて語られたものである。詳しいことはその時に学ぶが、エレミアスは、主イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実こそ歴史的に捉えることができる、主イエスの宣教の第一のもの、最も深い神秘であるところのもの、故に「言うべからざるもの」であるというのである。
 私は、同じことがヨハネの誕生物語についても言えるのではないかと考えている。ルカがここから記す主イエスの幼児期物語はそうした類いのものなのである。ルカがここで試みた「新しい試み」とは、ヨハネと主イエスの幼児期物語を、主イエスの宣教の第一のもの、最も深い神秘であるところのもの、「言うべからざるもの」として、歴史的に捉えようとした試みではないのか(1:5、2:1−2)。ゆえに私たちは、細心の注意と最大の用心を払って問いかけなければならない。一体、全体、ルカはこの記事で何を描き出したのか?

コメント

コメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

 | ホーム |