プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。……務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五ヶ月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくだいました。」(ルカ1:22−25)

 サムエルの母ハンナが祈りの門口に立ったのは〈不妊〉であった(サムエル記上1章)。それは自分の力ではどうにもならない現実の壁である。洗礼者ヨハネの母エリサベトも不妊の女であった。
 そのエリサベトがヨハネを身ごもり、歓喜の声をあげる。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくだいました」と。この歓喜の叫びは、彼女が現実の壁を前にして祈り続けた日々があったことを彷彿とさせる。
 この歓喜を実感として受けとめるには、ユダヤ教が列挙していたものとの比較が必要である、と言った人がいる。ユダヤ教では「四種の人間は死者に等しいもの」とされた。すなわち「跛者、盲人、皮膚病者、子供のない連中である」。こういう人々の状況は、当時の考え方によれば、もはや生きていると呼ばれるに値しない、死んだも同然のものだったのである。
 ところが、今や前途の希望もなく打ちひしがれている人々に助けの手が伸べられ、死人に等しかった人々に新しい生命が与えられたのである。呪われた時は終わり、楽園の門が開かれ、生命の水が流れ出したのである。「主は今こそ…わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました!」世界の完成が、今すでに始まったのである。

 一体ルカは、このエリサベトの歓喜で何を描いたのか。その胎に宿ったヨハネが楽園の門を開くということか。ルカは、ヨハネから世界の完成が始まるといっているのか。確かにマタイは、洗礼者を救いの時の始まりとしている。だからマタイは、主イエスとヨハネに「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2、4:17)という同じ言葉を語らせている。
 しかし、ルカは違う。ルカにとって救いの時は、イエスと共に始まるのである。そのことは、ルカがヨハネ誕生の物語を、ザカリアは口が利けなくなったという言葉で結んでいることに象徴されている。ザカリアの口が利けなくなったという記述は、6節に「二人とも神の前に正しい人で、主の掟をすべて守り、非のうちどころがなかった」とあるだけに、一層重い意味を持つ。「律法の義については落ち度がない」では、今、ここで起っていることは捉え切れないのである。旧約の時に属するヨハネでは、楽園の門は開かないのである。

 では、なぜエリサベトは歓喜の声を上げたのか。これとの関連で注目したいのはイザヤ書54章、不妊の女が歓声を上げると語った預言である。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。・・・恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。あなたの造り主があなたの夫となられる。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神・・・。」
 ここに、ルカが不妊の女エリサベトの歓喜で描いたものがある。ここに、エリサベトが口にした「恥」が繰り返される。預言者は不妊の女の恥が取り除かれると語ったのである。それにしてもなぜ預言者は呪われた時の終わりを告げることができたのか。第二イザヤはこの直前、53章で「苦難の僕」による罪の贖いを語る。
 しかり、不妊の女が上げる歓喜の声は、主の僕が私たちの罪を負って神の裁きを受けられる結果として起こることなのである。今や前途の希望もなく打ちひしがれている人々に助けの手が伸べられ、死人に等しかった人々に新しい生命が与えられるのである。生命の水が流れ、呪われた時は終わり、楽園の門が開かれたのである。世界の完成が今すでに始まったのである。
 ルカは、ヨハネの誕生物語_不妊と不信仰_で、現実の壁を超える時の到来を描いたのである。その意味でヨハネは、エリヤの霊をもつメシアの先駆者なのである。

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