プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記2:1-3、ヨハネ19:28-30、エフェソ1:3-14
讃美歌 520

 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2:1−3)

Ⅰ. 完成の日
 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は創世記2章1節以下です。ここには、「天地万物が完成された」第七の日に、神が安息されたことが語られています。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった!」
 ここで二度くり返される「完成する」という動詞(2:1では受身、2:2では強調)は、1章では一度も使われていません。しかも天地万物の完成は、神が「すべての創造の仕事を離れ、安息なさった」(2:3)ことにあるというのです。ここで「離れる(シャーバト)」と訳された語は、その名詞形がシャッバート、つまり「安息日」です。仕事から離れること、それが安息日の特色なのです。しかも、ここで大切なのは、神においてはいっさいの仕事を〈離れる〉ことと、仕事の〈完成〉とが結びついていることです。つまり、ここだけに〈完成としての休み〉があるのです。
 大型連休も終わり、また明日から仕事が待っています。私たちは仕事の合間に休みます。仕事を中断し、休んで疲れをいやして、また働くのです。休んでいる人を待っているのは前と同じ仕事です。未完成のままに残された仕事です。その繰り返しの中で私たちは、仕事の完成を見ることなく人生を終えるのです。

 その意味で、「第七の日」に神が安息されることで、天地創造の業が完成したというこの言明は、「祭司文書全体の中でも最も注目に価する、そして最も大胆な証言を含んでいる」と言われるのです。どういうことかと言えば、ここで語られていることは、始原論の領域(物事の始めについての論考)を外れそうな境界線ギリギリを動いていると。「初めに、神は天地を創造された」と語り出す天地創造の物語は、第七の日で、創造論の領域を外れそうな様相を呈しているのです。
 それは「第七の日」の描き方が、それ以前の六日間とはあらゆる点で違う、何か新しいものを表現していることからもわかります。ここには「神は言われた」もなく、「そのようになった」も、また「夕となり、朝となった」もないのです。つまり、この第七の日は、それ以前の六日間の創造の日々に続くような同じ一日ではないのです。それは六日間のすべての営みと努力がそれを目ざす〈目標〉の日、〈完成〉の日なのです。
 この七日目の特異性を端的に表現したのが3節です_「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」_。神は「第七の日を祝福し、聖別された」のです。祝福とは生命力です。つまり、第七の日は命に充たされた時、八日目のない終末の日、時の完成の日なのです。それは、「まるで神の空間にまで飛び上がり、生ける神のもとに安息があることを証言している」かのようである、と言った人がいます。
 アウグスティヌスが『告白』の冒頭で描いたのが、この安息でした。アウグスティヌスは言うのです。人間は被造物の一つの分として、「死の性を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが『たかぶる者をしりぞけたもう』ことのしるしを、身に負うてさまよう」ていると。だから、「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」と。
 バビロン捕囚という、逃れるすべのない苦悩の中を生きていた祭司記者が「第七の日」に込めた思いもこの安らぎ、神のうちに憩う安らぎではないでしょうか。そしてそれは、いっこうに過労死がなくならない、私たち現代人が熱望してやまない安息なのです。
 祭司記者がここで描く「第七の日」に秘められた奥義を知り、私たちも神の空間にまで飛び上がり、生ける神のもとにある安息に与りたいと思います。

Ⅱ.創造と救済
 実は、創造主なる神に関する証言は、聖書が記された歴史の中では、比較的新しい時代に現われるというのが研究者たちの共通した見解です。具体的に言えば、第二イザヤと祭司記者、それに年代を決定するのが困難な幾つかの詩編です。つまり、これから分かるように、創造主なる神への証言は捕囚期に集中しているのです。
 それは、聖書の民は捕囚期以前に、神を創造主として崇拝していなかったというのではありません。エジプトからの救出、葦の海の奇跡、そして荒野の導きといったイスラエル独自の救済行為と、創造信仰とを正しく関係づけるのに長い時間を必要としたということです。その過程で重視されたのは、イスラエルはどのような仕方で創造信仰を救済信仰に結びつけたのかという問題です。
 そのことについて一つの示唆を与えてくれるのが第二イザヤです。第二イザヤ、つまりイザヤ書40章から55章までを一瞥すると、創造者としての神への言及は、第二イザヤの宣教の本来的な対象でないことが分かります。例えば、第二イザヤは「あなたを創造された主……、造られた主」(43:1a)と言いますが、それはこの後に語られる主文、「わたしはあなたを贖う!」(43:1b)に移行するためのものなのです。
 「わたしはあなたを贖う!」この救済論的な証言こそ、第二イザヤの本来的な宣教の対象なのです。第二イザヤが創造信仰を語るのは、神の救済への信頼を強めるためなのです。さらに言えば、第二イザヤは創造自体に救済の出来事を見ているのです。

 改めて言うまでもなく、捕囚期とは、神の救いの歴史が中断された時代です。民衆の視点から言えば、主の手は短くてわれわれを救い得ないと言われた時代です。その時代に第二イザヤは、神の救いの確かさを語るために、創造主なる神に言及したのです。「あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方」(44:24)と語ったのです。そこでは創造と贖いが重なり合うのです。つまり、第二イザヤは神の世界創造を荘重に語りつつ、同時にイスラエルのバビロンからの解放を語るのです。

 創造と贖いが重なり合い、創造は劇的な神の救済の行為の一つの業として語られる第二イザヤの証言で興味深いのは、遠い昔に大いなる深淵の水を干上がらせた天地創造と出エジプトに現わされた主の御腕と、イスラエルをバビロンから救い出す神の御腕とは、様相をまったく異にするということです。
 「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立って、代々とこしえに、遠い昔の日々のように。……海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか」(51:9-10)。
 捕囚の民は、「主の御腕よ、遠い昔の日のように力をまとえ」と訴えているのです。主の御腕は短くて救い得ないと言っていたのです。
 これに対して、第二イザヤは、イスラエルをバビロンから救い出す神の御腕は、かつてイスラエルをエジプトから導き出したようなものではないと語ったのです。それは、誰も見たことも聞いたこともない〈主の僕〉の様相をとるとしたのです。
 第二イザヤは言うのです。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない!」
 この見栄えなき主の僕が、わたしたちの罪、咎、過ちのすべてを身代わりに背負い、神の前に進み出て裁かれることで、わたしたちは赦された!と。この苦難の僕による罪の赦しがなければ、たといバビロンの苦しみから解放されたとしても、そこには真の解放はないと言ったのです。

 祭司記者が「第七の日」の神の安息で描いたのも、この真の解放ではないでしょうか。捕囚期の問題は、神の現臨、ここにいます神、近き神の喪失だと言われます。エゼキエル、第二イザヤ、そして祭司記者がそれぞれに問題にしたのは、この遠い神、疎隔した神がいかにしてなお近い神であるか、という問題なのです。
 言い換えますと、祭司記者は〈破れ〉の現実の中で、神の現在の問題を徹底的に考え抜いたのです。そして神の栄光の現臨は、基本的には礼拝において起る出来事であると見たのです。ここに、第七の日の完成としての神の安息が語られる意図があるのです。
 捕囚期、それは、「われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」(エゼキエル37:11)と言われた時代です。生きる望みが失せ、うなだれている人々に、祭司記者は、第七の日の神の安息を描くことで将来と希望を与えたのです。いっさいを失った状況で礼拝とその共同体に希望を見るのが、祭司記者の信仰であり、神学なのです。

Ⅲ. 神の安息
 ところで、先に触れた、「第七の日」に神が安息されることで、天地創造の業が完成したというこの言明は、「祭司文書全体の中でも最も注目に価する、そして最も大胆な証言を含んでいる」。ここで語られていることは、始原論の領域を外れそうな境界線ギリギリを動いている、ということを黙想していたとき、主イエスがベトザタの池で、38年間寝たきりであった人を癒された記事が想い起されました。ユダヤ人たちはそれが安息日であったとの理由で、主イエスを迫害し始めたのです。そのとき主イエスはこう言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)。
 私たちは創世記2章1節以下で、「天地万物は完成された」と聞いたばかりです。そうであるのに主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われたのです。天地万物は完成したのではないのか。神はすべての創造の仕事を離れて、安息なさったのではないか? なのになぜ、主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」と言われるのか。
 それは、このとき主イエスを、安息日規定を犯したとして迫害したユダヤ人たちの視点は創造論であるのに対して、「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われた主イエスの視点は救済論であるということです。そして、この救済論的視点から見た神の創造の完成が十字架なのです。
 福音書記者ヨハネはそれを次のように描きました。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。……イエスは、このぶどう酒を受けると『なし遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた!(安息なさった!)」。
 ヨハネは十字架のキリストに父なる神と子なる神の「完成としての休み」、安息があるとしたのです。

 それにしてもキリストの十字架に!神の安息、「完成としての休み」があるとはどういうことでしょうか。そのことについて重要な示唆を与えているのはエフェソ書1章3節以下の御言葉です。そこにはこうあります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました!」
 わたしはここに主イエスが言われた、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働く」を読み解く鍵があると考えています。神は「天地創造の前に」、御子イエス・キリストを十字架にあげることを決意されたのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びに」なったのです。
 神が天地創造の前に、つまり時間が始まる前に御子との間で決意されたことが、二千年前のゴルゴダの十字架で実行に移されたのです。エフェソ書の記者はそれを次のように語りました。「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され」(1:9-10)云々!
 この「秘められた計画」とは、「御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」るということです。神が、天地創造の前に、御子との間で決意された「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」したことが、二千年前、エルサレムの郊外のゴルゴダの十字架で実行されたのです。

 造られたこの世界の中にキリストの十字架が立っているのではないのです。十字架のキリストの下に世界は存在しているのです。そうであるがゆえに、世界は十字架の下に立たない限り安らぎ、憩い、安息はない!のです。
 エフェソ書の記者がこの文脈で繰り返す語る言葉があります。それは神を賛美するということです。「神が愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6)。「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(12)。「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(14)。
 祭司記者が天地創造の第七の日の神の安息で描いたのもこれなのです。いっさいを失った状況で礼拝とその共同体に希望を見るのが、祭司記者の信仰であり、神学なのです。

 神は「天地創造の前に、わたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びに」なったのです。その選びが、御子イエス・キリストの十字架で完成したのです。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」
 然り、十字架のキリストこそ、神の贖いの完成なのです。人間を救う神は、その働きを十字架のキリストで完成し、安息なさった!のです。
 「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」このイエスの安息こそ、祭司記者が創世記2章で語る「神の安息」なのです。だからこそ、ここで語られていることは、「まるで神の空間にまで飛び上がり、生ける神のもとに安息があることを証言しているがごとくである」と言えるのです。
 十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出される主の晩餐でわたしたちが与るのは、この神の安息なのです。わたしたちはいま、ここで、すでに「生ける神のもとにある安息」に憩うのです。神の空間にまで飛び上がるのです(Ⅱコリント12:2)。

(祈り)
 これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。
 愛する主よ、教えて下さい。全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。主よ、わたしは知っています。あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示して下さったのだということを。
 主よ、わたしたちは、だれのところへ行きましょうか。永遠の命の糧をもっているのはあなただけです。深い悔い改めをもって主の食卓に与る者としてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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