プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(ルカ1:30−32)

 ルカはマリアへの受胎告知を、直前の、洗礼者ヨハネの誕生物語と密接に関連づけている。ある研究者はこの両者の関係について次のように解説した。「ここの報告は、構成と表現法において1:5−25と類似する。・・・・・・著者にとっては、エリサベトに起こったこととマリアに起こったこととは、様々な相違があるとしても基本的には一致する。」
 私は、洗礼者ヨハネと主イエスの誕生物語は「構成と表現法において・・・類似」しているとしても、「基本的には一致する」とは思わない。類似ではなく相違を強調していると考えている。言い換えれば、御使ガブリエルがマリアに遣わされたことは、ザカリアとエリサベトに遣わされたことをはるかに越えた出来事なのである。

 両者の相違を示す一つは、ヨハネの両親ザカリアとエリサベトが「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めとをすべて守り、非のうちどころがなかった」(1:6)と紹介されているのに対して、マリアについては一切、このような説明がなされていないことである。マリアについて語られていることは、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリア」(27)という一文だけである。
 また、ザカリアとエリサベトが神の都エルサレムの住民であるのに対して、マリアはガリラヤの町ナザレの住民である。そこはイザヤが、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」と言った地である。ルカは、マリアもまた私たちのように何も生み出し得ない死の世界に生きていたと記すのである。

 もう一つの相違は、ザカリアとエリサベトは高齢であり、また「不妊の女」であったとはいえ、アブラハムとサラからイサクが生まれたように、ヨハネの誕生の奇跡には前例がある。しかし、おとめが「身ごもって男の子を産む」(31)誕生の奇跡は、旧約には前例がないのである。
 宗教学者M.エリアーデは、おとめが「身ごもって男の子を産む」マリアの処女降誕には、人類史的な意義があると言う。「この場合にも、世界中に流布しているアルカイック(原始性)な宗教的観念の吸収と再評価の過程がみられる。事実、聖母としてのマリアの神学は、単性生殖や、偉大なる女神たちが所有すると主張した自己受胎の力に関する太古からの、アジア的、地中海的観念を継承し、完成するものである。マリア神学は、有史以前の昔から女性の宗教的神秘に対して払われてきたもっとも初期の、もっとも重要な敬意の変容を示している」と。
 人類の文明史にとって、農耕の発見の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。自分の食糧の生産者となることで人口が飛躍的に増加し、人間は先祖伝来の行動様式に変更をもたらしたのである。しかも土壌の豊饒は女性の多産と密接に結びつき、その結果、女性は豊作に責任を負うことになった。女性は創造の「神秘」を知っているのである。それは生命、食物、そして死の起源を司る宗教的神秘の問題とされた。
 有史以前、地母神は処女生殖によって独力で子を産んだ。処女性—母性というこの矛盾の共存は、〈神性の神秘(近より難い聖)〉のひとつの側面を示している。ここにマリア崇拝が果たした「アルカイックな宗教的観念の吸収と再評価」という歴史的役割・意義がある、とエリアーデはいうのである。

 有史以前の数千年間、地母神は処女生殖によって独力で子を産んだ。そしてこの〈処女性—母性〉という矛盾の共存における女性と母性の聖性は、農耕の発見においてその力を著しく増大した。このことは何を意味するのか。産業革命以後の機械文明の発展の中で、子どもは必要ない!とする女性が出現したのである。つまり、マリア崇拝において完成した処女性—母性の聖性が今、著しい変質をとげているのである。人類史上、未曾有の変化が今、女《性》に起こっているのである。ローマ・カトリック教会が慎重に築き上げてきたマリア神学が今、崩壊の途にある。つまり、マリア崇拝では現代の闇は引き裂けないのである。

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