プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」……「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。……」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:28、30、38)

 洗礼者ヨハネと主イエスの誕生物語は一致よりも相違を強調している。その最大の相違は、両者を全く別次元のものとするのは、御使ガブリエルがマリアに語った言葉である。御使は二度繰り返し、マリアに、「恵まれた方」と語りかけたのである(28、30)。
 恵みとは、「神みずからが設けた、神に近づくことを可能にする道」のことである。それゆえユダヤ教では、神の愛と並んで神の恵みが選びの根拠となっている。パウロはそれをこう言い表した。「今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。しかし、恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」(ロマ11:5、6)。
 ここに、なぜルカは、マリアを紹介するのにザカリアやエリサベトのように「正しい人で、主の掟と定めとをすべて守り、非のうちどころがなかった」(1:6)と記さなかったのか、その理由がある。マリアが「神の母」として選ばれたのは、マリアが「正しい人で…非のうちどころがな(い)」、純粋で、清らかな人格であったからではない。
 つまり、ルカがここで描いているのは、マリアの人格の美ではなく、マリアを(!)選んだ絶大な神の恵みなのである。神の恵みはこんな人を「神の母」にするのか。然り、それが神の恵みなのである。それを象徴しているのが、「わたしは主のはしためです」(38)というマリアの言葉である。「はしため(女奴隷)」とは、ギリシア思想やヘレニズム思想においては、ほとんど例外なく侮辱的な意味を帯びている。ルカはこの言葉で、マリアの「卑しさ/低さ」、「無」(ルター)、つまりただ神の恵みによってのみ生きる人間の在り方を示したのである。

 卑しき者、無価値な者、低き者マリアを選んだ神の恵みを端的に伝えているのが、フィリピ書2章6節以下の初代教会の讃美歌、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした!」(6−8)である。
 何ものも並び立つもののない高き天より御子イエス・キリストは低きに下られたのである。しかも十字架の呪い(イザヤ8:21b「神を呪う」)という極限の低さにまで下られたのである!
 私たちにとって興味深いことは、聖書の民はこの低きにくだる神に最高の美を見たということである。「最高の美は、ヤハウェがイスラエルの歴史的実存(罪)の中へと降下したことである」(フォン・ラート)。イスラエルにとって特徴的なことは、神の自己放棄に至るまでのヤハウェの下降にはその美表出(輝き出る美しさ)を伴うという点にある。己自身が滅びるまで低きにくだる神! そこに、神の民イスラエルは寒気を覚えるような神の聖愛、至高の美を見たのである。
 しかし、聖書の民が見た「美」はそれだけではない。救済の恵みもまた美をもつのである。人間が自らを神の好意の対象と認めることが許されたとき、神が人間の「頭を持ち上げられた」とき、最後に人間自身が美しく登場するのである。
 ここにマリアが放つ美がある。マリアの美しさ、それは「自らを神の好意の対象と認めることが許された」者が放つ美しさなのである。言い換えると、己自身が滅びるまで低きに下られた御子イエス・キリストの至高の美が、マリアを美に染め上げたのである。
 
 低きにくだる神、イエス・キリストの至高の美に染め上げられて、キリスト者は「世にあって星のように輝」(フィリピ2:15)かねばならない。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように!」と微笑むマリアたちは、世界を覆う夜と霧を引き裂く光なのである。

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