プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記2:4-9、ヨハネ4:13-26、Ⅱコリント4:6-15
讃美歌 177

 主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:4−7)

Ⅰ. 人間を見つめて
 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は創世記2章4節以下、もう一つの創造物語です。創世記1章の荘厳な創造物語を読んだ後に、2章の創造物語を読むと、全く異なる精神性の中にあることに気づきます。それはより素朴であり、アルカイックな、つまり原初的な物語なのです。
 実は、聖書に学問的批評学の方法が取り入れられて以来、創世記2章から3章は徹底的な分析の対象となってきました。研究者たちは、「時と共にますます多くの不均衡、重複、物語の進行上の明白な破損などを発見し、その結果、テキストの統一性と内的完結性に重大な疑問をなげかけるようになった」のです。
 それに加えて、このテキストには聖書の学問的研究とは違う、別の困難な問題があります。それは原初の汚れなき至福(パラダイス)についての神話的な、非聖書的なさまざまな表象が知らず知らずのうちにキリスト教的な思考に結びついてしまっていることです。
 こうした事情をふまえて次のように言った人がいます。「ことによると、聖書の中にこのテキストほど、泥の中に嵌まり込んで動けなくなってしまったさまざまな問いのうず高い集積に対して、はなはだ冷淡なもの、まるでナイフの刃のようにか細い道を通じてかろうじてその証言を伝えてくるものは、他に一つとしてないかもしれない。このテキストそのものに全面的に身を任せるのでなければ、それをまったく誤解してしまうことになろう。」
 私たちは、非聖書的なさまざまな表象が結びついているこのテキストに全面的に身を任せ、カミソリの刃のような細い道を通じてかろうじて伝えてくる証言を聞くことができるでしょうか。聞きたいと思います。

 すでに触れたように、創世記1章を書いた記者が生きていたのはバビロン捕囚の時代でした。それは、地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、強風が間断なく吹き荒れていた(1:2)世界でした。
 それに対して、2章の創造物語を記した人が生きていたのは、イスラエル民族が歴史上最も栄えた時代、紀元前11〜10世紀、ダビデ・ソロモン王の時代です。千年の後も「栄華を極めた」(マタイ6:29)といわれた時代です。この人の眼に世界はどのように見えていたのでしょうか。
 創世記1章において創造は、水がカオス(混沌)からコスモス(宇宙)へと引き返すことによって進められますが、この人は原初の状態を水のない荒地、すなわち荒涼とした砂漠地帯とみているのです。言い換えますと、この人もまた、深く世界の荒廃を見ていたのではないでしょうか。この人はイスラエル史上最も栄えた時代に、豊かさを追い求めて奔走する人びとの姿を見つめながら、そこに激しい存在の渇き、荒野を見ていたのです。
 その意味で、創世記2章が見ている世界は、わたしたち現代人が見ている世界と重なるのです。わたしたちもまた、豊かさの中の貧しさ、存在の渇きの中に生きているからです。精神科医神谷美恵子は、私たちの国が高度経済成長の坂を脇目も振らずに走っていた時、『人間を見つめて』を次のような言葉で書き出しました。「戦後二十五年のあいだに、日本では物はゆたかになったが、心はかえってうえているという。」この人もまた豊かさ、すなわち文明の進歩の中で、精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降にある人間を見つめていたのです。

Ⅱ. 土を耕す人
 ところで、創世記1章の記者は人間本来の姿を「神の像」に見たのですが、2章の記者は人間本来の姿をどのように見ていたのでしょうか。それについて一つの示唆を与えているのは、5節と15節で言及される「土を耕す人」です。
 千年の後も「栄華を極めた」と言われた時代、貿易船は海に帆を上げ、都市では建設事業がなされ、槌音がやむことのない時代に、この人は、人間とは「土を耕す人」であると語ったのです。そこにはどのような思いが込められているのでしょうか。
 アメリカ合衆国のペンシルベニア州やカナダのオンタリオ州に、ドイツ系移民の宗教集団アーミッシュが生活しています。彼らは今でも移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足の生活をしています。
 この人も、文明を捨てて、「土を耕す人」として生きよと勧めているのでしょうか。確かにこの人がまとめた、世界と人類の置かれている根本的な状況を記した創世記2章4節bから11章の、いわゆる「原初史」を見る限り、進歩や文化への緩やかな立ち上がりに対応して、人間と神との疎外化が深化し、世界が混乱したことが語られています。
 しかし、それでもってヤハウィストが語る原初史の本来の意味は十分言い尽くされていません。それは、原初史の本来の結びである創世記12:1−3によって初めて明らかになるのです。それは、一人の死んだも同然のアブラハムによる全世界の祝福です。
 ヤハウィストが人間とは「土を耕す人」であると語るとき、ここにあるのも、死んだも同然のアブラハムを「祝福の源」とするのと同じ精神ではないでしょうか。

 これとの関連で注目したいのが、人は「土の塵」で造られたという証言です。因に、宗教学者M.エリアーデは『世界宗教史』の中で、粘土で最初の人間を造ったという神話は古代エジプト、ギリシアから「未開」民族まで、世界中のいたるところで確認されていると言います。しかもエリアーデは、特に最古の人類文明であるメソポタミアに伝わる二つのシュメール伝承に言及し、原初の人間は、神本来の性質を分け持っていたと分析するのです。「これは、神の存在様式と人間の状態のあいだに越えがたい距離がなかったということを意味する」。
 「土の塵」から人間は造られたと語る創世記2章の著者の意図もそれでしょうか。「神の存在様式と人間の状態のあいだに越えがたい距離がな(い)」ということでしょうか。私は違うと考えています。違うどころか、この人は、人間は土の塵から造られたと語ることで、世界中の至るところで確認される、原初の人間は、神本来の性質を分け持っていたという観念を根底から否定しているのです。創世記2章の記者がいう「土の塵」は、古代文明を生み出したチグリス・ユーフラテス川領域の肥沃な大地ではなく、「水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野」(申命記8:15)、神性からもっともかけ離れた死の現実なのです。
 このことを端的に言い表したのが詩篇詩人やヨブ記の著者、また哀歌の詩人です。彼らにとって「塵」は決して神をほめたたえることのない、死の絶望の言い換えなのです。ヤハウィストが描く人間の創造と、それ以前のすべての神話との間には決定的な相違があるのです。神の存在様式と人間の状態の間の、越えがたい距離です。それは人間の全ての望みが絶え果てるところ、神はその死の現実から生命を生み出されたのです。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」のです。
 いったい、この人は、土の塵で形づくった人間に命の息を吹き込んだと語ることで、いかなる信仰を言い表わしたのでしょうか。

 この人は、原初の状態を、肥沃な大地ではなく荒野であったといいます。実は、半遊牧民として牧草地を求めて移住していた聖書の民にとって、荒野は原体験です。聖書の祖先は荒野(砂漠)で生まれ、そこで生きたのです。
 聖書の民にとって砂漠は単に風土的、地理的な表象以上のもの、全く独自の宗教的意味を持っていると言われます。そこは「雨と豊饒のやさしい風」の届かない、「野の木も、野の草も生え」ない乾いた大地、悪霊の棲息する陰府の国、つまり呪詛の地なのです。言い換えますと、シェマーマ(砂漠)の意味する荒廃は、人間精神の荒廃と重なり、精神が廃墟となった人間を表示するのです。
 この人間内部の荒廃を〈罪〉という言葉に置き換えると、砂漠が表示する現実は、人間における罪の現実となるのです。つまり、聖書の民にとって、砂漠は、人間の現実から隔絶した外の世界ではなく、人間の現実に容赦なく侵入してくる〈罪〉のあらゆる表示なのです。罪人とは、さながら砂漠のように荒廃した人間をいうのです。
 御言は、この砂漠が地下から湧き出る水によって潤され、その潤された土から神は人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れると、人は生きる者になったと語るのです。何も生み出し得ない死の世界、呪われた世界から生命が生み出されたと語るのです。

Ⅲ. 土の器
 この人間の罪の現実としての砂漠、土の塵を地下の水が潤し、人が作られたと語る御言を黙想している時、ヨハネ福音書4章が伝えるサマリアの女の物語に導かれました。
 ヨハネが描くサマリアの女は、まさに魂が荒廃した人、文字どおりの罪人です。彼女は人目を避けるようにして、誰も水をくみに来ない昼の十二時頃、井戸に水をくみに来たのです。当時、水汲みは女性の仕事でした。しかもそれは朝早くか、夕方涼しくなってから行われたのです。しかしサマリアの女は太陽がジリジリと照りつける昼の12時頃、水汲みにきたのです。なぜ? 他の女たちと顔を合わせたくなかったからです。太陽の炎暑よりも、女たちの視線の方がこの人にとってはるかに痛かったのです。この女は何人もの男と、結婚、離婚を繰り返していたのです。
 その日に限って女は、そこに人影を見ます。一瞬躊躇しますが、女は急いで井戸に降りて行き、瓶に水を満たすと急いでその場を離れようとします。その瞬間、男が、あなたの手にあるその器から水を飲ませてください、と語りかけたのです。女は男がユダヤ人であり、サマリア人である自分に話しかけたことに驚きますが、男が語る「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という言葉を聞くと、万感の情を込めてこう叫んだのです。「主よ、渇くことがないように、その水をください!」女がどれほど深い渇きの中にあったかを、この一句は見事に表現しています。人は主イエスと出会うことで、存在の深みにある渇きを知るのです。「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。誰が、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んだパウロのようにです。

 この後、主イエスとサマリアの女の会話は礼拝の問題へと移っていきます。人間の存在の根底にある渇き、つまり罪の問題は神礼拝によるしか解決を見ないからです。「主よ、渇くことがないように、その水をください」と叫ぶ女に、主イエスは言われます。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である!」
 これを聞くと女は反問します。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」すると女は主イエスから驚くべき言葉を聞くのです。「それは、あなたと話しているこのわたしである!」

 イエスがメシアである、とはどういう意味でしょうか。ヨハネはこの後、仮庵祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、主イエスが叫ばれた言葉を伝えています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:37-38)と。
 これは、主イエスがサマリアの女の渇きを癒す「命の水」について語られたことと同じです。ヨハネは、この水はまことの神礼拝のために与えられる聖霊であり、それは、イエスが十字架に上げられた後に与えられると説明します(7:39)。そしてヨハネは、主イエスが十字架に上げられた場面を次のように描いたのです。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』といわれた。こうして、聖書の言葉が実現した!」と。
 わたしには、ヨハネがここで描く十字架のキリストは、ヤハウィストが描く土の塵から人間を作る神と重なるように見えてなしません。十字架のキリストは罪人の上に、死の絶望である塵の上に、彼の上にかがみ込んで息を吹きかけるのです。「人はこうして生きる者となった。」この生命は、直接神に由来するのです。それは、神の口が命を持たない人間の肉体に触れた!というほどに直接的です。死の渇きの中で、水ヲ下サイ、と叫ぶ人の上に、神はかがみ込んで、口を鼻につけて息を吹きかけたのです。すると、その人の内より命の水が湧き上がり、生きる者となったのです。

 結びに、この真理を端的に語ったパウロの言葉を聞いて終わりたいと思います。パウロは第二コリント4章6節でこう言います。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光(十字架)を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」
 「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を……土の器に納めている」とはどういうことでしょうか。それを知る手がかりは、主イエスを知ったことで起こったパウロの変化にあります。主イエスを知る前、パウロは肉の誇りの中で生きていました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした!」このように豪語していたパウロが、主イエス、しかも十字架のイエスを知ったとき、肉の誇りの全てを「塵あくた」とみなすと語ったのです。パウロは「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」ことで、自らが「塵あくた(=土の塵)」であることを知ったのです。存在の深みにある渇きを知ったのです。神は、死の渇きの中にある私に命の水を与えるために、御子イエス・キリストを十字架に上げられたのです! それが「いつもイエスの死をこの身に負うている」ということなのです。

 蛇の誘惑によって神が創造したままの肉体が破壊されてしまった後、神はイエス・キリストにおいて再び肉体の中へ入られました。そしてイエス・キリストの肉体が引き裂かれた時、今度は聖礼典において神は、「からだ」と「血」という形の中に入られたのです。
 然り、聖餐式のからだと血は、堕落した人間アダムのために新しい現実を創造するのです。言い換えますと、わたしたちキリスト者の体は「土の塵」ではなく、キリストの肉と血でできている!のです。ゆえに、こう語りうるのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。
 これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。全世界の贖いのためには、
あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
 主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。永遠の命の糧を持っているのはあなただけです。深い悔い改めをもって主の食卓に与る者としてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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