プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 身分の低い、この主のはしためにも
   目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
   わたしを幸いな者と言うでしょう。
              (ルカ1:48)

 マリアはこう歌う。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」〈身分の低い、主のはしため〉とは、マリアの自己卑下、謙譲の美徳か。そうではない。マリアはこの表現で、取るに足りない無価値な者、塵灰にすぎないという〈被造者感情〉を言い表わしたのである。だからルターは「無」と訳した。そう訳すことによってルターは、私たちの目を、自らを無価値な者とするマリアの謙虚さではなく、塵灰にしかすぎない無価値な者〈マリア〉に目を留める「神の憐れみ」に向けさせようとしたのである。
 「受胎告知」から輝き出る美しさ、それはマリアの自己卑下でもなければ、謙虚さでもない。「受胎告知」から輝き出る美しさ、それは無価値な者を顧みる神の恵みの輝きなのである。この神の恵みが、マリアを美の人に作り上げたのである。「人間が自らを神の好意の対象と認めることが許されるとき、神が人間の『頭を持ち上げられた』とき、最後には人間自身が美しく登場する」(フォン・ラート)。

 つまり、ルカは、マリアを特別な存在としては描いていないのである。マリアは優れて母性が豊かであったというのではない。この事実は、何を物語るのか。それは、マリアの母性がキリストの人格を形成したのではない、ということである。そうではなく、キリストの人性(天を引き裂いて地に下る、神の自己放棄という最高の美)が、マリアの母性を創ったのである。御言はこう告げている。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1:35)。無でしかないマリアを、否、マリアは無であったがゆえに(!)、神の恵みはマリアに十分に働いたのである。神の力は弱いところに完全にあらわれるのである(Ⅱコリント12:9)。無価値な者、愛するに価しないものを愛する神の愛(アガペー)が、マリアの「無」から、神の母たるべき「母性」を創ったのである。マリアは、自分がその任に相応しいかどうかなど、一切気に病む必要はないのである。

 これとの関連で注目したいのは、先に紹介した平井信義(ハーモニー9)の言葉である。平井は『失われた母性愛』の中で、母性愛の喪失とか、母性分離、母性剥奪という言葉ではなく、「母性形成不全」という言葉を中心に据えるべきであると言う。つまり、「母性愛は形成されるものであって、人間が生まれつき持っている特性ではない」と。
 「母性愛は形成されるものである」とすれば、母性を失ったこの時代にも希望があり将来があるということである。もしこの時代がキリスト・イエスにおける神の愛をマリアのように受け入れるならば、この時代は母性を形成されるのである。ルターは言う。「マリアに係わることは信仰において私にも係わることであり、それはさらに、信仰において世界と歴史に係わることである」。

 「マリアに係わることは信仰において私にも係わることであり、それはさらに、信仰において世界と歴史に係わることである」。この係わりを誰の目にも見える仕方で表現したのが、主の晩餐である。ここにあるのはまさに、僕の姿をとったキリストである。無でしかないマリアを、美のひとに創造した神の恵みである。私たちはここで、マリアに成る!のである。その時わたしたちは、パウロと共にこう告白するのである。「生きているのは、もはや、わたしではない。(マリアのように)キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神のみ子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。
 私たちの時代は、深いところでキリストを内に宿した〈マリア〉たちを必要としている。神の恵みが私たちの中で十分に発揮されるように、私たちもマリアのように大いに喜んで自分の弱さを、「無」を誇りたいと思う。そして、キリストを内に宿した聖餐共同体として、新しい歴史を創る挑戦を続けたいと思う。

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