プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記2:15-25、マルコ10:1-12、エフェソ5:21-33
讃美歌 516

 人は言った。
 「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。
 まさに、男(イシュ)から取られたのものだから。」
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:23−24) 

Ⅰ.孤独な群集
 きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は創世記2章15節以下です。ここには神が土の塵で造られた人間のために、「彼に合う助ける者」を作る物語が伝えられています。主なる神は、「人が独りでいるのは良くない」と言って、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来たのです。
 人はそれに名前を付けますが、しかし、その中に自分に合う助ける者を見つけることはできませんでした。そこで神は、人を深い眠りに落とし、あばら骨を抜き取り、それで女を造り、まるで花嫁の介添人のように手ずから女を男の所へ連れて来たのです。
 その瞬間、男はその新しい被造物が彼自身に属するものであることを悟り、「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう。まさに、男から取られた」と歓喜の声を上げたのです。
 私は聖書の中に、アダムが女を見て上げたこの歓び以上に深い喜びを知りません。男は女に何を見て、何を認識して、これほどの喜びを覚えたのでしょうか。

 それは、人が生きるのに必要なあらゆる物質的条件が整ったエデンの園で過ごしていた、ある日のことです。神は、「人が独りでいるのは良くない」と言われたのです。「この一文には、実際に生きられた人生のどれほど多くの直観と体験が凝縮されていることか!」(シュテック)といった人がいます。
 興味深いのは、この物語は、イスラエルが歴史上最も栄えた時代、千年の後も「栄華を極めた」(マタイ6:29)と言われた時代の中で語られていることです。物質的に何不自由のない時代、そうした時代背景の中で、「人が独りでいるのは良くない」というこの言葉が語られたのです。この人は繁栄の中をうごめく群集に「孤独」を見ていたのではないでしょうか。
 その意味で、この物語は極めて現代的な意味をもっています。私たちも繁栄の中の孤独を生きているからです。人と人との情緒的な結びつきも失われ、「個人は孤独に、おそらく歴史上のいかなる時よりも孤独」となり、仲間といっても、「砂山のなかの砂粒ほどの関係しか」持つことができないのです。
 先ほどのみ言葉の朗読でお分かりのように、「人が独りでいるのは良くない!」この言葉で始まるこの段落は、繁栄の中の孤独を癒すことが主題です。しかもこの段落は、「24節(「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」)を正しく理解することに、多くのことが掛かっている」と言われています。この結婚の秘儀は、影のような姿で超地上的な事実を垣間見せていると。
 このまとめ句において、これまでの物語全体が最初から目指していた本来の目標に初めて到達するのです。ここにこそ、この物語が言わんとしたことが示されているのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」この言葉が影のような姿で垣間見せる〈超地上的な事実〉を知りたいと思います。知って、アダムのように深い歓びに満たされたいと思います。

 ところで、研究者たちは、この物語は顕著な原因譚的性格を帯びているといいます。なぜ、今、世界はこのようになっているのか、その原因が問われていると。
 なぜ、今、世界はこのようになっているのか? この問いとの関連で重要な役割を果たしているのが、2章の創造物語と3章の堕罪物語とを結ぶ25節です。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」。恥とは、人間であることの最も謎に満ちた現象の一つです。取って食べてはならないと命じられた木から取って食べた男と女を襲った最初の感情が恥でした(3:7)。つまり、恥は神から与えられた自由の喪失のしるしなのです。

Ⅱ. 自由の喪失
 この自由の喪失との関連で注目したいのが、マルコ福音書10章1節以下です。そこには、離婚をめぐる主イエスとファリサイ派の人々との論争が伝えられています。ファリサイ派の人々は主イエスにこう詰め寄ったのです。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。
 こう詰め寄る人々に主イエスは次のように反問されます。「モーセはあなたたちに何と命じたか。」すると彼らはこう答えたのです。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました!」
 この後、主イエスが語られた言葉は、モーセの律法に忠実であろうとするファリサイ派の誇りを完膚なきまでに打ち砕くものでした。主イエスはこう言われたのです。「あなたがたの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ!」主イエスは、モーセが神の意に反して!「離縁」を許したのは、あなた方の心が頑なだからであると言われたのです。

 「頑な」とは、旧約聖書全巻を貫ぬくテーマです。申命記の著者は、神がイスラエルをご自分の宝の民として選び、乳と蜜の流れる土地を与えるという文脈でこう記します。「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である」(9:6)。神の民イスラエルは「頑な」さゆえに、約束の地から放り出されたのです。
 主イエスは、離婚を巡るファリサイ派の人々とのやり取りで、彼らの頑なさを抉り出されたのです。モーセをして神の御心に反する掟を書かせるほど、あなた方の心は頑なであると。そして主イエスは創世記2章の結び句を引用し、それに新しい戒めを添えられたのです。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれて、二人は一体となる。……従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない!」
 同じ記事がマタイ福音書にもあります。そこには、この問題を巡る弟子たちの反応が記されています。弟子たちは、「夫婦の間柄がそのようなものなら、妻を迎えない方がましです」と言ったのです(19:10)。
 神が、「人が独りでいるのは良くない」と言って、「彼に合う助けるものを作ろう」と決意し、最も秘密に満ちたもの、女を作られたのに、弟子たちは、一人でいる方がましであると言って、神の配慮を否定したのです。

 なぜ、今、世界はこのようになっているのか? 主イエスとファリサイ派の人々、それに弟子をも巻き込んで行われた「離婚」をめぐる問題で主イエスが言及された創世記2章の言葉、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる!」の重みを改めて思います。この結婚の秘儀の中に影のようにその姿を垣間見せる〈超地上的な事実〉を知りたいと思います。

 これとの関連で注目したいのが、エフェソ書5章21節以下の、夫と妻に対する教えです。エフェソ書の著者は次のように語り出します。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」
 この「互いに仕え合う」にこそ、創世記2章が語る「彼に合う助ける者(ふさわしい伴侶)」の意味があります。直訳しますと、「彼の前にあるごとき」で、男と同等である面と補い合う関係とを一句で表しています。ふさわしい助け手とは、男が土地を「耕す」時の「手助け」のことではありません。女は、男が生きてゆくために利用する「手段、道具」ではないのです。
 ちなみに、男と女の関係を言い表す「ふさわしい」伴侶という言い方は、旧約聖書では創世記2章18節と20節の二回しか用いられていません。このあと3章を見るとわかるように、取って食べてはならない木の実を食べたことで、「ふさわしい」伴侶の関係は崩れ、女は子を産む道具、男に支配される存在になるのです(3:16)。

 エフェソ書の著者は、この破れを是認しているかのように、「妻たちよ、主に仕えるよう、自分の夫に仕えなさい」と語ります。このエフェソ書の言葉は、性差別を肯定していると、フェミニズム神学から猛攻撃を受けている聖句です。
 エフェソ書のこの言葉は、フェミニズム神学が批判するように性差別を肯定し、助長しているのでしょうか。その真意は、この一連の言葉の結び句に端的に言い表されています。
 エフェソ書の著者は、女が男に仕えるという破れの現実を真正面から受け止めつつ、主イエスがそうしたように、創世記2章24節、「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」を語り、そして言うのです。「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです!」こう言ってエフェソ書の著者は、結婚の秘儀の中に影のようにその姿を垣間見せる〈超地上的な事実〉を描いて見せるのです。「わたしたちは、キリストの体の一部」であると。
 「わたしたちは、キリストの体の一部」である! なんという幸い、なんという喜び、なんという苦しみでしょうか。男のあばら骨から作られた女が男の一部であるように、キリストのからだと血から作られた教会は、キリストの体の一部なのです!
 ここに女を見たときの男の歓喜が垣間見せる超地上的な事実があるのです。教会はキリストの体の一部である。この教会を見て、男が女を見て歓喜したように、神が歓喜しているのです。迷い出た一匹の羊の譬えの結びで主イエスが語ったようにです。「言っておくが、悔い改める一人の罪人については、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある!」(ルカ15:7、10)。

Ⅲ. 偉大なる神秘 
 教会はキリストの体の一部である。この教会を見て、天に大きな歓びがある! 神が歓喜している! 一体、神の歓喜とは何か。それを読み解く鍵が、女を見た時に発した男の歓喜、「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」にあるのです。男は女に何を見たので、女の何を知って、これほどの歓びに満たされたのでしょうか。

 「同じもの同士は好んで集まる_類は共を呼ぶ_」といわれます。その意味は、「同じものは同じものによってのみ承認される」(プラトン)ということです。男が女を見て発した歓びはこれでしょうか。
 キリスト教神学は、極めて早いころからこの原則を受け入れました。しかし、同じものは同じものによってのみ認識されるとすれば、神の子は天にとどまらざるを得ないことになります。人ではない神の子は、地上の者には認識不可能だからです。
 しかし聖書は語るのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは独り子としての栄光」(ヨハネ1:14)であると。神の子は天を引き裂いて地に降られたと。誰が、それが神の子であると知ることができるのでしょうか。この、肉となった言、《真の神・真の人_神性において父と同質、人間性においてわれわれと同質_》であるイエスは、類比に基づく認識原理では捉えきれないのです。フェミニズム神学の限界がここにあるのです。類比に基づく認識では、同情的イエス(真の人)は知りえても、十字架のキリスト(真の神)は知りえないのです。
 つまり、肉となった言・《真の神・真の人》であるイエスを認識するには、別の認識原理が必要なのです。神学の世界では、それを弁証法的な認識原理といいます。弁証法的な認識とは、「いかなる本質もその反対物においてのみ、愛は憎しみにおいて、統一は争闘においてのみ、露となりうる」(シェリング)ということです。
 この弁証法的な認識論でいえば、神は神に見捨てられたキリストの十字架において露わになるのです。すなわち、神の神性は、十字架の逆説においてのみ露わになるのです。そのとき、主イエスの道もまた一層理解できるものとなるのです。つまり、敬虔な人ではなく、徴税人、遊女、罪人こそが、義人ではなく、義ならざる者が、九十九人の正しい人ではなく、一人の迷い出た羊が、十字架のイエスを認識したのです。

 この「いかなる本質もその反対物においてのみ露となりうる」という弁証法的原理は、「同じものは同じものによってのみ認識される」という類比原理に取って代わるのではありません。取って代わるのではなく、類比原理をはじめて可能にするのです。
 神が、その反対物において露わになるかぎり、神は、神なき者、神に見捨てられた者によって認識されるのです。そして、この認識が、人を神に対する対応物にするのです。Ⅰヨハネはそれを、「イエスのようである」(4:17)と言いました。「イエスのようである」とは、土の塵である人間が神性を持つ!ということです。
 この信仰の神秘に触れて終わりたいと思います。いかなる本質もその反対物においてのみ露になるならば、十字架につけられた方の教会は、等しいものたちの集まりではなく、むしろ、構成上等しくないものたちが集まりでなければならないのです。パウロはそれを次のように言いました。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ3:28)である。
 この真理を最も適確に表現したのがボンヘッファーです。「教会は恐らく、大都市における聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、最も確信をもって現われ出るであろう。自然的な結びつきはほとんど何らの役割をも演じない。軍国主義者と平和主義者、資本家と労働者、(男と女)の間には、最も深い対立が横たわっている。神がここキリストにおいて設定したもうたことは、最高に逆説的な一致」である。

 教会は、大都市における聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、最も確信をもって現われ出る! キリストの肉を食べ、血を飲む聖餐共同体、この偉大な神秘こそ、天上の歓びなのです。男から取った肋骨で女が作られたように、キリストのからだと血から教会は作られるのです。言い換えますと、土の塵でしかないわたしたちが、キリストの神性をとるのです。教会はそれを「永遠の命」と言い表したのです。
 わたしたちが毎週行っている主の晩餐は、この土の塵でしかないわたしたちが、キリストの神性をとることを祈り求めることから始まるのです。「このパンとぶどう酒の神秘によって、わたしたちが、人となられた方の神性に与かることができますように。神よ、悔い改めるわたしたちを、きょう、御心に適う生贄として、受け入れてください。」
 主の晩餐で私たちは、《真の神・真の人》である「イエスのようである」のです。なんという幸い、なんという歓び、なんという苦しみ!でしょうか。「この世でわたしたちも、イエスのようである!」このキリストにふさわしい伴侶、キリストの神性をとる聖餐共同体だけが、孤独な群集を癒すことができるのです。
 
(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。
 これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。全世界の贖いのためには、
あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
主よ、わたしは知っています。
あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
 主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。永遠の命の糧を持っているのはあなただけです。深い悔い改めをもって主の食卓に与る者としてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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