プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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  幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
  主に先立って行き、その道を整え、
  主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
                      (ルカ1:76−77)

 解放の神学者グティエレス神父は『ヨブ記』の講解を、次のような言葉で始める。「われわれは、貧困と抑圧の蔓延する状況下において、愛として顕現される神について、いかなることばを発すべきなのであろうか? 若くして、また不当に蹂りんされて他界する男女に対し、われわれは生ける神の存在をいかに告げるべきなのであろうか? また、無垢の民の苦難を目の前にして、神がわれわれに愛という無償の贈り物を作って下さったと、いかにすれば承認することができるのであろうか? 人間として見なされることのない男女に対して、あなたがたは神の息子であり、娘なのであると語るとき、われわれはどんなことばをもってそれを語ればよいのであろうか? これらが、ラテンアメリカで、また同様の状況に置かれた世界の他の地域で形づくられてたき神学において問われている主要な問題なのである。」
 グティエレス神父のこの言葉は、読む者の心を激しく揺さぶる。
 富める者と貧しい者の間に横たわる〈敵意〉を神学の中心に据えたのが「解放の神学」と呼ばれる新しい神学である。キリスト教二千年に及ぶ宣教の歴史、その神学と実践を俯瞰したデイヴィッド・ボッシュは、キリスト教会は今、宣教のパラダイム(枠組み、規範)が変わる時を迎えていると語る。新しい宣教の枠組みがどのようなものになるかは定かではないが、新しい宣教の枠組みを構築する中心的な役割を果たしているのが「解放の神学」であるという。
 解放の神学とは「歴史の底辺」における、政治的、社会・経済的立場を表明したキリスト教の在り方である。それは、ヨーロッパ・キリスト教の神学と実践が、組織的な社会悪の問題に取り組めなかったことへの抗議として展開された。解放の神学者は、より大きな社会の構造に焦点を合わせ、改善では不十分である。求められているのは、根本的な刷新であると主張した。つまり、人間の敵は、力のない人々を搾取し滅ぼす権力構造にあるとしたのである。

 福音書記者ルカが、貧しい者や周縁に追いやられた人々に特別な関心を持っていたことは、一般に認められている。例えば、マリアの賛歌にはこんな言葉がある。神は「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(1:53)。これに類する表現は、ルカ福音書全体を覆っているのである。例えば、貧しい者への祝福と富める者への呪い(6:20、24)、富める愚か者の譬え(12:16−21)、富める者と貧乏人ラザロの物語(16:19−31)、エリコの徴税人ザアカイの物語(19:1−10)を考えるだけで十分である。しかも、これらはすべてルカにしかない記事なのである。

 解放の神学は、ますます深刻さを増す南北問題に救いと癒しを与えるキリスト教の新しい形となるのか。言い換えれば、解放の神学者が語る貧しい人々、社会の底辺、周縁に追いやられている人々の解放は、ルカが語る抑圧された人々の解放と同じ線上にあるのか。答えは、否である。ルカ福音書と解放の神学の間には、根本的な違いがある。それは、解放の神学は罪を人間の内にではなく、社会の構造に見ていることである。解放の神学者は、貧しい者だけが本来的に善であり、悪しき存在は金持ちや抑圧者であるとしたのである。しかしルカは、罪は人間の心に根ざしている、貧しい者も他の人々と同じように罪人である、と語るのである。
 これとの関連で注目したいのは、ザカリアの賛歌の後半である。75節までの前半が敵からの解放を主題としているのに対して、後半の76節以下は、罪の赦しによる救いが主題となっている。
  幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
  主に先立って行き、その道を整え、
  主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。(1:76−77)。
 ルカはザカリアの賛歌をこのような二部構成にすることで、これから展開されるイスラエルの救いは、〈敵〉、すなわち苦しみからの解放ではなく、罪の赦しにあるとしたのである。パウロがそうしたように、み言葉の説教と聖礼典で、十字架につけられたイエス・キリストを目の前に描き出したいと思う。貧しい人々が幸いであるのは、十字架のキリストにおいてだけなのである。

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