プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記3:1-7、ルカ4:1-13、ヤコブ1:12-18
讃美歌 361

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:6−7)

Ⅰ. 死の脅威
 今日、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記3章1節以下です。ここには女が蛇の誘惑に落ちて、「決して食べてはならない。食べると必ず死(ぬ)」と言われた「善悪の知識の木」から取って食べた瞬間のことが語られています。聖書宗教はここにOriginal Sin、原罪を見ているのです。
 旧約聖書には、いつ、誰が、どこで罪を犯したかについては多すぎるくらい語られていますが、非常に複雑な宗教的現象である罪〈そのもの〉(=原罪)に関する省察は極めて稀です。つまり、創世記3章から11章に記された、罪の侵入と雪崩のように拡大する罪を語るこの箇所は、特別なのです。しかも語り手のあらゆる関心は、人間が踏み出し、もはや二度と元には戻れない一つの道を示す点に集中しているのです。

 それはエデンの園で起きました。すべての「楽園」がそうであるように、エデンも「世界の中心」にあり、人はそこで大地を耕し、「ふさわしい伴侶」を得て、何不自由のない生活を送っていたのです。
 そのエデンの園には、中央に特別な名を持つ二本の木が生えていました。「命の木」と「善悪の知識の木」です。そのうちの一本、「善悪の知識の木」には、「食べると必ず死ぬ」という死の脅威のゆえに、「その実を食べてはならない」という禁令が付されていました。つまり、エデンの園の中央には、食べると「永遠に生きる者になる」(3:22)「命の木」と、食べると必ず死ぬ「善悪を知る木」が生えていたのです。こうして聖書は、人間の生と死を、知識を媒介にして関連づけたのです。

 人間の生と死は、知識を媒介にしている。このことを黙想していたとき、宗教学者エリアーデが『世界宗教史』の冒頭で、人間が他の生物と決定的に違う「道具を作るための道具」、すなわち技術の進歩について語った言葉が思い起こされました。エリアーデは言います。「過去二世紀間の科学技術のめざましい発展が、西洋人の精神にそれに比べられる発展をもたらさなかったことはよく知られている事実である。__ヤスパースは、科学・技術の進歩は、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降をもたらす、と言いました__。」そしてエリアーデは言うのです。「かつて言われたように、『あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた』。古人類は技術的停滞のために生き残ったのである」。
 あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいる! このエリアーデの言葉に呼応するかのように、エリアーデに強い影響を与えた心理学者ユングはこんなことを言っています。「あの宗教改革以来、プロテスタンティズムは各種の分派の温床となるとともに、学問と技術のすみやかな発達を促し、これに目を奪われた人間の意識は、予測しがたいもろもろの力をそなえた無意識というものの存在を忘れてしまいました。第一次世界大戦の破局と、これにつづいて起こった精神の根深い欠陥を示す数々の異常な事件とによって、はじめてわれわれは、白人種の精神は一体本当に健全なのだろうかと疑い始めたのです」。そしてユングは言います。世界はいま、「破壊と創造との根源である灼熱地帯へ一歩ちかづいている」と。
 ユングがこの言葉を語ったのは第二次世界大戦前夜(1940年)でした。ユングが語ったように、世界は破壊と創造の根源であるカオス(灼熱地帯)と化したのです。あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらむ、その頂点に原爆があるのです。わたしたちの国はその原爆、死の灰の洗礼を受けた最初の人類です。あれから70年、世界は今、独裁国家北朝鮮の技術革新、核戦略によって、集団の死の危険にさらされています。
 世界はいま、滅びに向かって突き進んでいる。しかも、この滅びに向かう歩みを止める力は人間にはないのです。多くの心ある人々が、地球環境の破滅的な状況を訴え、また核廃絶を訴えています。しかし、経済成長神話に取り憑かれ、仮想敵に怯える為政者たちは、滅びに向かう道を突き進んでいるのです。
 「善悪の知識の木」から取って食べ、創造主に対して最悪の罪を犯した男と女の末裔、現代人は、創世記3章が描く裸の不安、死の脅威のもとで生きているのです。

Ⅱ. 殺しの螺旋
 なぜ人間は、決して踏み越えてはならない限界を踏み越えてしまったのか。それについて聖書は、直接的には何も答えていません。ただ独特な仕方で、間接的に答えているだけです。神が「ふさわしい助け手」として創造された「女」が蛇の誘惑に落ちたのです。
 ある人は、聖書がこのような仕方で被造物と悪とを描いたことで、二つの願いが達成されたと言います。その二つの願いとは、罪の責任を人間に完全に負わせようとする願いと、罪責というものは、理解も、説明も、まして言い訳することもできないことを明確にするという願いです。

 エデンの園の優しい風に吹かれながら、女は園の中央にある木の傍を通り過ぎようとしていました。そのとき、どこからともなく姿を現わした蛇が女に語りかけたのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのですか。」
 この蛇の問いは実に巧妙です。神は、「園のすべての木から取って食べなさい」と言われたのです。それを蛇は、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言い換えたのです。こう言い換えることによって蛇は、女に反論の機会を与えるという罠を仕掛けたのです。女は蛇の思惑通りに答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました!」
 この女の答えを聞くと、蛇はさらに、神の秘密を知っているという態度で、つまり敬虔な態度で、女に言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 創造主が、この木の実を食べると「死ぬ」と定めたものを、蛇は「神のようになる」という約束に結びつけたのです。蛇は僅かな強調点の置き換えと、半ばの真理によって、疑うことを知らない女が自分から進んで、蛇の目論見に加担し、反応するように誘導したのです。蛇が女に仕掛けた会話の巧みさは驚くばかりです。蛇は一言も「ああしなさい、こうしなさい」とは言わず、一つの刺激を人間の心に注ぎこむことで、あとは人間がまったく自由に、自発的に、決断するように仕向けたのです。

 この後、何事もなかったかのように蛇は姿を消します。ひとり残された女は、物思いに耽りながら木の前に立っています。しかし、事が起こるのに長い時間を要しませんでした。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」からです。
 女が禁断の木の実に手を伸ばす描写は実に巧みです。読者はここで、女が体験したさまざまな感情を矢継ぎ早に体験することになるのです。
 「女が見ると、その木はいかにもおいしそう。」これは自然な、素朴で感覚的な感情です。
 「目を引き付け」は、より繊細で美的な刺激です。
 そして、「賢くなるように唆していた。」これこそ最も強力な魅力です。
 こうして、その魅力に抗えない「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」のです。
 ヤコブは、この時の女が誘惑に落ちる瞬間を、実に見事に描いて見せました。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1:14−15)。
 人は自分の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望は孕んで罪を生み、罪が熟して死を生む!のです。これが誘惑の正体なのです。なんという絶望! 人間は、生きていると思いこんでいますが、本当はもう死んでいるのです。善悪の知識の木の実を食べた人間は、飽くなき技術革新に取り憑かれ、大量の死を生み出してきたのです。人類の歴史、それは殺しの螺旋なのです。

Ⅲ.十字架_命の木
 殺しの螺旋から降りることができない人間に、救いはあるのか。裸の不安を包み込んでくれるものはいるのか。この問いに真正面から答えているのが聖書です。
 聖書は、厳密に言うと、最初の人間の誘惑とイエス・キリストの誘惑、すなわち、「人間を没落へと導く誘惑」と「サタンを没落へと導く誘惑」の二つの誘惑を告げています。それ以外の誘惑はすべて、この二つの誘惑のうちのいずれかです。つまり、私たちは、アダムの受けた誘惑を受けるか、それともキリストの受けた誘惑を受けるかのどちらかなのです。そしてその際、私たちがアダムのもとに立つならば没落に至り、キリストのもとに立つならば、サタンが没落しなければならないのです。

 アダムの誘惑はエデンの園で行われました。結果、一体であるべき男女の関係は崩れ、大地は呪われ、楽園から追放されたのです。主イエスは、その楽園から追放された人間が生きる荒れ野でサタンの試みを受けられました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はそれぞれの信仰と神学で、主イエスが荒野で受けたサタンの誘惑を伝えています。
 ルカを見ると、聖霊に満ちた主イエスは、「荒れ野の中を、“霊”によって引き回され……悪魔から誘惑を受けられた」とあります。このことについて、「イエスの誘惑は、父なる神が、戦いに備えてあらゆる力と武器とを御子に与えたということによって始まるのではなく、聖霊がイエスを荒野に導いた、すなわち孤独の中に、見捨てられた状態の中に導いたということによって始まる」と言った人がいます。
 いったい、主イエスは荒れ野でどのような悪魔の試みを受けられたのでしょうか。マタイとルカでは、悪魔の三つの試みは__石をパンに変える、悪魔を拝するなら、世界の富と権力を与える、神殿の屋根の端から飛び降りる__、順番が異なります。
 実は、この三つの誘惑は一つの目的でなされていると言った人がいます。石をパンに変える誘惑は、主イエスが第二のモーセとしてマナの奇跡を再演すべきであるということ、神殿の屋根から跳び降りるは、主イエスの使命の正統性を証しする派手な劇的奇跡のこと、そして世界中の富を与えるから私(サタン)を拝めは、主イエスが政治的指導者として花道を踏むことが内容になっていると。つまり、「これら三つの誘惑物語の……場合、ただ一つの同じ誘惑、政治的メシアとしての登場が問題となっている」(エレミアス)のです。サタンはイエスを、十字架への道から引き離そうと試みたのです。
主イエスは、この悪魔の試みをことごとく退けられたのです。十字架へとその歩みの照準を定められたのです。それによって荒れ野がエデンの園に変貌したと語ったのはマルコです。マルコは荒れ野の誘惑を次のように描きます。「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた!」(1:13)。
マルコが荒れ野の誘惑で描いたこの光景は、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。……わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」という、預言者イザヤが描いた救いの完成そのものです。だからこそ主イエスはこのあと、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られたのです

 ところでルカは、この荒れ野の誘惑を、次のように結びます。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」わたしたちはここで一つの問いを与えられます。「時が来るまでイエスを離れた」悪魔は、いつ、再び姿を現すのか?という問いです。ルカはこの問いに次のように答えるのです。「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った!」(22:3)。
 それは主イエスが十字架に上げられる過越祭が近づいた時のことです。「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った!」のです。この状況下で主イエスは、最後の晩餐を十二弟子たちと祝い、十字架の奉献を先取りする主の晩餐を制定されたのです。
 ルカはそれを次のように描きます。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている!』」

 主イエスはご自分を裏切るユダに、「取れ、これはわたしの体、取れ、これはわたしの血である」と言われたのです。
 エデンの園で蛇は、「善悪の知識の木」から取って食べよ、と言い、それを取って食べた人間は死んだのです。人間は、生きていると思いこんでいますが、本当はもう死んでいるのです。その死んだ人間に主イエスは、ご自分の肉と血を「取って食べよ」と言われたのです。主イエスはご自分を裏切るユダに、ご自分の肉と血とを差し出すことで、サタンに勝利されたのです。主イエスはこの勝利を次のように語られました。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」(ルカ10:18−19)。

 ここに、取って食べてはならないと言われた木の実を取って食べた女の呪いに終止符が打たれたのです。神は女を誘惑した蛇に言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意をおく。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記2:15)。しかし、主イエスは言われるのです。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた!」死人に等しい者に命が与えられたのです。
 私たちは、私たちが生きる人生の荒れ野でキリストの肉と血を食べるのです。十字架の奉献を記念する主の晩餐において、死人に等しかった者に新しい生命が与えられるのです。生命の水が流れ、呪われた時が終わり、楽園の門が開かれたのです。言い換えますと、天地創造の前に、わたしたちを愛し、御自分の前で聖なる者、汚れなき者にしようと、キリストにおいてお選びなった神は(エフェソ1:4−5)、エデンの園に「命の木」を植えられたのです。然り、キリストの十字架こそ命の木、それだけが裸の不安、死の恐怖を癒すことができるのです。

(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
 全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、
 なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
 主よ、わたしは知っています。
 あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
 主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。永遠の命の糧を持っているのはあなただけです。深い悔い改めをもって主の食卓に与る者としてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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