プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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  これは我らの神の憐れみの心による。
  この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
  暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
  我らの歩みを平和の道に導く。
                  (ルカ1:78−79)

 ルカによれば、主イエスはその福音の中心に貧しい者を置いた。ここに主イエスによって完成した未来、新しいことがある。このことについて重要な示唆を与えているのがルカ福音書4章16節以下のエピソードである。
 メシアの先駆者ヨハネから洗礼を受け、40日間荒れ野で悪魔の試みを受けられた主イエスが、郷里ナザレで、初めて神の福音を語られた時のことである。主イエスは敵からの解放を告げるイザヤの言葉を朗読された。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(4:18−19)。
 ここまで読まれると、イエスは巻物を係りの者に渡して、こう言われてたのである。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)。主イエスはここで、苦しみからの解放を高らかに宣言されたのである。ところがルカは、この後、主イエスの言葉を聞いた人々は皆憤慨し、イエスを殺そうとしたと記すのである。
 一体、何があったというのか。それを知るには、ルカが始めの2章に記した主イエスの幼児物語が重要な鍵となる。ルカは最初の2章を注意深く構成することで、当時のユダヤ人たちのメシア待望を浮き彫りにした。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、シメオンの言葉には、イスラエルの解放についての言及が過剰なまでに含まれている。これは当時のユダヤ人の生活を忠実に描いていると思われる。一世紀のパレスチナは「煮え立つ釜」であり、特にガリラヤは革命家と黙示的思想家にあふれていた。ナザレも決して例外ではなかった。
 こうした状況の中で、霊に満ちた主イエスがイザヤ書61章を読んだのである。聴衆は、革命的な迫力をもって語られる言葉を熱烈に期待したのではないか。主イエスの、「今日、・・実現した」という言葉は、おそらくその期待を煽り立てたと思われる。
 しかし、主イエスに向けられた民衆の熱い視線は、疑惑に満ちたものへと変化したのである。なぜ? それは、主イエスがイザヤ書61章の朗読を2節前半、「主の恵みの年を告げ知らせるためである」で打ち切ってしまったからである。ヘブライ語の平行法によれば、この後に「わたしたちの神が報復する日」が続く。ところが主イエスは、朗読をその直前で打ち切ってしまったのである。そこに居合わせた会衆は「イエスは何をしようとしているのか」と怪しんだのではないか。なぜ彼は、イスラエルの敵、異邦人への神の復讐の部分を読まなかったのかと。もはや復讐の余地はない!とでもいうのか。
 然り、もはや報復の余地はない!のである。これこそイエス・キリストがもたらした成就した未来、新しいことなのである。このことを端的に語っているのがエフェソ書の言葉です。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました!」(2:14−16)。
 キリストは十字架の死により、人と人、民族と民族、国と国とを隔てる「敵意の壁」を取り壊されたのである。この平和を誰の目にも見える仕方で表現するのが主の晩餐である。

 今、私たちの世界を覆い尽くしているのは、抑圧からの解放を求めるナザレの人々の声である。アフガンで、イラクで、北朝鮮で、アフリカで、中国で……。カインの末裔レメクが77倍の復讐を誓って以来、報復の嵐が世界を蔽い尽くしている。この敵意が渦巻く世界のただ中に聖晩餐を共に守る群れを作ること、それが貧しい者への福音なのである。ただ十字架の言葉だけが、ますます深刻化する南北問題、富める国と貧しい国との敵対関係を和解へ、平和へと導くのである。

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