プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記3:8-21、マタイ27:45-54、Ⅱコリント4:16-5:5
讃美歌 521

 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:20-21)

Ⅰ.呪われた世界
 きょう、聖霊降臨祭(ペンテコステ)の礼拝で、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記3章8節以下です。ここには「神のように善悪を知るものとなる」という蛇の誘惑に落ちた男と女が、「決して食べてはならない」と禁じられた「善悪の知識の木」から取って食べた後のことが語られています。

 それにしても神のようになれる、と聞いて、その場を黙って立ち去る者がいるでしょうか。しかも「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」というのです。
 改めて言うまでもなく、わたしたちキリスト者の願いは、「主と同じ姿に変えられ(る)」(Ⅱコリント3:18)ことです。主と同じ姿に変えられることを願うのと、神のようになりたいと願うのとは、違うのでしょうか。その違いについて語られた主イエスの言葉があります。主イエスは、ご自分の受難と死と復活を予告された文脈でこう言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し…ている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。…仕える者…すべての人の僕になりなさい。」
 「すべての人の僕になる」とは、いわゆる謙譲の美徳というようなことではありません。もしそうのように考えるとすれば、それは「主と同じ姿」、キリスト形に対する甚だしい誤解です。なぜなら主イエスは、この後、僕になること、つまり「仕える者」であることを次のように理由づけているからです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである!」(マルコ10:42−45)。
 神の化身ファラオがそうであるように、神のようになりたいという願いは、すべて肉なる者の願いなのです。しかし、すべての人の僕になる、仕える者になるという願いは、私たちの中からは出てこないのです。それは聖霊による願いなのです。聖霊降臨祭のこの礼拝で聖霊を豊かに受け、私たちも主と同じ姿に変えられたいと思います。

 ところで、禁断の木の実を取って食べた後のことが語られているこの箇所には、「呪い」という非常に強い言葉が2度記されています。1度目は、女を唆した蛇に対して、「野のすべての獣のうち、最ものろわれる」(協会訳)と語られ、2度目は、男に対する罰の中で、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とあります。
 古代人にとって呪いは、単なる悪意以上のもの、修復不能な救い難い事態を引き起こすと言われています__例えば、共同体の交わりからの追放といったような__。その意味で創世記2章以下の創造物語は、祝福で結ばれる創世記1章の創造物語とは真逆です。
 創世記1章の創造物語は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、強風が水面を吹き荒れていた」世界に光が射し、次々と秩序が与えられるという、造られたすべてのものが美しい世界です。それは祝福に満ちた世界です。神は、ご自分に似せて人を創造されたとき、「彼らを祝福」されたのです。また、「第七の日を神は祝福し、聖別された」のです。これが、創世記1章が語る「天地創造の由来」です。
 それに対して、創世記2章以下の創造物語は真逆です。それは楽園、エデンの園で始まり、そしてエデンの園からの追放で終わるのです。神のようになろうとした人間が禁断の木の実を食べ、神に対する服従という素朴さから抜け出し、神と共なる生活を棒に振ってしまったのです。

 因みに、混沌から始まり、祝福で結ばれる創造物語を語る創世記1章の記者が生きていたのはバビロン捕囚の時代であると言われています。それは「情深い女たちさえも、手ずから自分の子どもを煮て、それを食物とした」(哀歌4:10)という、言語を絶する深い闇の時代でした。創世記1章の記者はそうした時代に、闇を引き裂く光、無から有を呼び出し、死人を生かす神の祝福を語ったのです。
 他方、創世記2章以下が記されたのは、千年の後も「栄華を極めた」(マタイ6:29)といわれたソロモン王の時代です。それは平和と繁栄の時代でした。その時代にこの人は、世界は呪われているとしたのです。
 文明の進歩、豊かさとはなんなのでしょうか。ある経済学者は、産業革命以後の「一世紀半の間に西洋とアメリカに何が起こったかを理解しうるものはただ悪魔の力を信ずる人のみであろう」(ゾンバルト)と言いました。なによりも主イエスご自身が、「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われたのです。そうであるのに私たちが生きているこの世界は、あまりに多くの希望が、あまりに多くの人々のアイデンティティが、工業化された現代文明の多くが、果てしなく続く物質的成長という前提の上に築かれているのです。しかも科学技術の目覚しい進歩を見るとき、私たち現代人はあたかも神の領域に足を踏み入れたかのようです。それは人間にとって祝福なのでしょうか。創世記3章の記者は、神の領域に足を踏み入れた人間は、呪われた存在であるとしたのです。

Ⅱ. 神からの逃亡
 一体、何が起こったというのでしょうか。み言葉はこう始まります。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえ」ると、アダムと女は恐ろしくなり、「神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」たと。
 詩編139編の詩人が語るように__「わたしが天にのぼっても、あなたはそこにいます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」__、私たちが神から逃れて隠れる場所など、天地万物のどこにもないのです。
 そうであるのに、アダムと女は隠れたのです。このあと私たちは、ここで起こったことの事態の深刻さを知るのです。逃れることのできない神から逃れ、木の間に身を隠したアダムに神は言われます。「あなたはどこにいるのか。」この神の問いは実に衝撃的です。善悪を知る木の実を取って食べ、神のようになったのに、アダムは自分がどこにいるのか、自分が何者なのか、わからないというのです。
 神のようになったのに、アダムは、自分がどこにいるのか、自分が何者であるのか分からない! そのことを思い巡らしていた時、スペインの思想家オルテガの言葉が思い起こされました。
 「われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかがわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っているのである。」
 このときアダムは、私たち現代人同様、「歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂って」いたのではないのか。それは、このあとの神との問答で明らかになります。アダムは言います。「恐ろしくなり、隠れています。わたしは裸ですから」と。すると神は言われます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
 この神の尋問にアダムは、蛇から学んだ知恵で、自らの行為の責任を神に転嫁したのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました!」このときアダムは、神、すなわち命の領域から、蛇、すなわち死の領域に身を置いたのです。

 このことを、このあと語られる神の審判が明らかにします。それは実に陰惨です。ちなみに、この罰の宣告は原因譚的に理解すべきであると言った人がいます。つまり、ここに、創世記2章から始まる創造物語がそこへと向かってきた本来の目標、クライマックスがあるのです。 
 語り手は、「ある種の心眼」によって、地面を這う蛇に動物学上の種以上のものを、つまり、この世界に説明できない仕方で存在する悪、デモーニッシュなものを見るのです。
 人はデモーニッシュな力(悪魔の力)に支配されて他者に敵意を抱くのです。このデモーニッシュな力は、女の「はらみの苦しみ」と男への服従を支配し、そして、呪われた大地と格闘し、顔に汗してパンを得、ついに土に帰る男の一生を支配するのです。
 こうして、神のようになろうとして、神に対する服従という素朴さから抜け出した人間は、神に近い楽園生活を棒に振るのです。彼に残ったのは、疲労困憊させる謎に満ちた生活であり、悪の力との希望なき戦いに巻き込まれ、最後には無条件に死に至る一生なのです。

 ところで、この特別の重みをもつ罰の宣告は、その頂点で死を語ります。「塵にすぎないお前は塵に返る」と。言い換えますと、聖書は、人間は一生の間、死の影に脅えて生きなければならないとしたのです。
 この恐ろしい「無」、死から目をそらすために、人は優しく手を差し伸べる「日常の世界」をつくり出し、そこで安らかに眠ると語ったのはハイデガーです。__人びとはなぜ日常の世界に埋没しているのか。なぜおしゃべりをし、生活のあれこれを配慮し、そして日々の習慣の軌道を安易にすべってゆくのか。それは日常性という板子一枚の下に、おそろしい「無」、すなわち死がかくれているからだ。この「無」から目をそらすために、人びとは優しく手を差しのべる「日常の世界」つくり出し、そこで安らかに眠る、と。 
 しかし聖書は、人が安らかに眠ることを許さないのです。罪、すなわち死と向かい合わせるのです。「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23)と。こうして次々と繰り出される神の罰によって、人間は全体としての存在と、人間自身並びに人間の限界を意識させられたのです。人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを知るのです。

Ⅲ. 死のうちの生命
 ところが、このあと私たちが聞くのは、「罪の支払う報酬は死である」との、罰の宣告とは全く異なる調べです。陰惨な死の結末の後に20節、アダムは女を「すべて命あるものの母」として、「エバ(命)」と名づけ、また21節、主なる神は「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」と聞くのです。
 新共同訳聖書は19節で、特別の重みをもつ死の宣告を語った後、一行開けています。この節目を越えて物語をさらに続ける際に、語り手は、ある種の矛盾や断絶が生じることを回避できなかった、と言った人がいます。つまり、19節と20節の間には、越え難い溝があるのです。古くから、19節から20節への移行は明白な欠陥箇所とみなされました。女への命名「エバ(命)」、「すべて命あるものの母」は、名誉ある名前であり、処罰宣告への最初の反響としてはふさわしくないと考えられたのです。
 陰惨な死の結末の後に一行開けて語られる「命」! 一体、著者はこのように物語ることで何を描き出したのでしょうか。「この言葉の中に含まれている苦しみ、愛、抵抗を、誰が言い尽すことができようか!」と言った人がいます。人が生きる世界、そこは、犯した罪ゆえに呪われた世界。その世界にあって母たちは、産みの苦しみの中で、次世代へと譲り渡されていく生命を生むのです。それは、人間に未来の時を信じさせ、未来に向かって働く祝福ではないのか。

 この後わたしたちは、さらなる感動、言い尽くすことができない言葉を聞くのです。神は死すべき人間の裸の恥を覆うために、「皮の衣を作って着せられた!」というのです。つまり神は、堕落した人間をあるがままに受け入れてくださったのです。
 この堕落した人間をあるがままに受け入れる神の行為の頂点にキリストの十字架があります。聖書は、堕落した人間の恥を覆うために、神は、御子イエス・キリストを十字架に上げられたと語るのです。
 その時のこと、つまり、神が人間の裸の恥、罪を覆うために御子イエス・キリストを十字架に上げられた場面をマタイは次のように描きました。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った!」
 地は震い、死者たちは甦り、新しい世が今や訪れようとしている! ここには最初の日々の雰囲気がなお何がしか保たれているといわれます。この最初の日々の雰囲気を今に伝えるものがあります。それは、主の晩餐です。「わたしを記念するためにこのように行いなさい」と言われた主の晩餐は、十字架のキリストを、いま、ここでのこととして現在化するのです。
 つまり、主イエスが制定された主の晩餐、聖餐共同体こそ、私たちキリストが「主と同じ姿にかえられる」ことの意味なのです。そのように言うと、人は笑うでしょう。十字架のイエスをあざ笑ったようにです。しかし、聖餐共同体こそ、聖霊を宿す者たちが願う主と同じ姿なのです。
 そのことを最も端的に伝えているのが、先ほど引用したマルコ福音書10章の主イエスの言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し…ている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。…仕える者…すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:42−45)。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである!」主の晩餐は、この主のあり方を現在させるのです。私たちを主と同じ姿に変えるのです。
 然り、聖餐共同体において、罪を犯した人間に対する神の呪いは終止符を打たれるのです。先ほどわたしは、呪いとは、単なる悪意以上のもの、修復不能な救い難い事態、例えば、共同体の交わりからの追放といったようなものであると言いました。この修復不能な救い難い事態、共同体の交わりからの追放された者を、主イエスは聖餐共同体に迎え入れたのです。
 それを誰の目にも最も印象的な仕方で表現したのが、主イエスと徴税人、罪人との食事です。それは単に社会的な次元の出来事ではなく、また主イエスのひときわすぐれた人間性、人を差別しない心のゆたかさ、踏みつけられている人々への深い同情を表現しているだけではないのです。その意味は一層深い次元に及んでいるのです。
 この会食は主イエスの使命と使信の表現であり(マルコ2:17)、終末的な食事、終りの時の救いの宴の先取り(マタイ8:11)であり、そこではすでに今聖なる人々の共同体が目の当たりに表されているのです(マルコ2:19)。食卓を共にする形で罪人が救いの共同体に迎え入れられているのであって、これは人を救う神の愛の使信を誰の目にも最も印象的な仕方で表現しているのです。
 罪人たちとの会食、ここに「主と同じ姿にかえられる」ことが最も印象的に表現されているのです。聖霊の器である私たちが願う〈キリストの形〉とは、食卓を共にする形で罪人たちが救いの共同体に迎え入れられている聖餐共同体なのです。
 「われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかがわからないのである。……われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っているのである。」
 この「歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っている」呪われた世界に聖餐共同体を形成すること、それが聖霊を宿した教会の使命なのです。 

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