プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカ2:6−7)。

 私たちは、ルカが描く主イエスの誕生物語を通して、いま生まれたばかりの嬰児に十字架のキリストを見る。なにゆえルカは、イスラエルが待ち望む苦しみからの解放者を、ダビデ的王ではなく十字架のキリストとしたのか。これとの関連で注目したいのは、イザヤ書53章が伝える「主の僕」である。そこには次のようにある。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない!」
 第二イザヤがここで描くメシアは、ルカが描く飼い葉桶に眠るメシアと重なる。それは「ダビデ的王」、つまり政治的メシアと区別される〈終末的メシア〉である。

 教会ではよく〈終末〉とか〈終末論〉という表現を用いる。終末論とは、歴史を終わりから見る見方である。終わりに最も新しいものを見る歴史観である。それが預言者の歴史観である。第二イザヤの目は、過去をふり返るときにも本当は過去に向いてはおらず、来るべき輝かしい将来にのみ向いているのである。
 言い換えると、ここで、救済史観の大転換が起こっているのである。第一イザヤ(1〜39章の著者)からエレミヤ、そしてエゼキエルへと受け継がれてきたダビデ的メシア像は、第二イザヤには全く見られない。第二イザヤにとってメシアは、第一イザヤが描く「エッサイの株より」出ずる絢爛たる王ではなく、「乾きし地にある木の根」にも似た、見栄えなき僕である。その対照は余りにも著しく、明らかに意識的なアクセントの変更がある。
 それにしてもなぜ第二イザヤは、伝統的に受け継がれてきたダビデ的メシア像を廃棄したのか。それは、ヤーウェのみがイスラエルの王であり(41:21、43:15、44:6)、パレスチナへの帰還後に回復されるエルサレムにおいてヤーウェが王として統治する(52:7)と考えたからである。つまり、いかなる人間も他者を支配してはならないのである。ただヤーウェのみが王である。ヤーウェを王とする人間はすべて「平等」である! 強烈なメッセージである。

 実際、この捕囚期の預言者の目には、イスラエル史上唯一最大の黄金時代と目されるダビデ王朝の夢を現在のダビデの裔に期待するには、その歴史的境位は余りにも破れており、人間的な希望を生き残りの王家の末裔にかけるには、現実は余りにも惨憺たるものがあった。より事柄に即した言い方をすれば、敵を滅ぼす政治的メシアでは平和は実現しない。政治的メシアでは、報復の連鎖さは断ち切れないのである。
 政治的メシアではなく終末的メシアこそ救いである! この間の事情についてキルケゴールが「単独者」のまえがきに記した言葉が一つの示唆を与えてくれる。キルケゴールは言う。「現代においてはすべてが政治である。宗教的なものの物の見方は、これとは天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。というのは、政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとするからである。・・・ただ宗教的なもののみが永遠性の助けをかりて、〈人間−平等〉を、神的なそれを、本質的なそれを、非世俗的なそれを、真実なそれを、唯一のありうえべき〈人間−平等〉を、最後の最後まで遂行できるのであり、それゆえにまた宗教的なものが真の〈人間性〉なのである。」

 ルカは、敵を滅ぼすダビデ的メシアではなく、母マリアの腕に抱かれる十字架のキリストにこそ〈人間−平等〉、真の〈人間性〉があるとした。私たちはそれを、主イエスが徴税人や遊女、罪人と共にした食事に見る! この「イエスの会食はその使命と使信の表現であり(マルコ2:17)、終末的な食事、終りの時の救いの宴の先取り(マタ8:11)であり、そこではすでに今聖なる人々の共同体が目の当たりに表されているのであって、これは人を救う神の愛の使信を誰の目にも最も印象的な仕方で表現している」(エレミアス)。
 母マリアのように、シメオンのように、私たちも十字架のキリストをその腕に抱きしめたいと思う。それが主の晩餐の秘儀である。私たちはここで、犠牲とされ給いし御子がベースで歌う、深き淵よりの声、「神は愛なり」を聞くのである。

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