プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)。

 マタイは自らの福音書を、人間の罪ゆえに呪われた世界を、命溢れる祝福された世界に創り替えるために「祝福の源」として選ばれたアブラハムから始め、メシア待望の歴史的起源となったダビデを経て主イエスに至る、神の救いの歴史を辿ることから書き始める。
 実は、旧約聖書の中には、神の救いの歴史をまとめた三つの大きな歴史著作がある。一つは、学者たちによって〈ヤーウィスト〉と呼ばれている思想家のそれで、創世記2章4節後半から、つまりエデンの園のアダムから始まり、イスラエルがモーセによって約束の地の手前まで導かれた歴史を描いている。それはイスラエルが歴史上最も栄えたダビデ・ソロモン王時代の作品である。次が、ヨシュアと共にヨルダン川を渡ったイスラエルが、統一王国を築き、やがて分裂、そしてバビロン捕囚に至るまでの、王国の形成と滅亡を描いた申命記的歴史著作である。それはイスラエル民族が約束の地から放り出された捕囚期に書かれた。そして三つ目の歴史著作が、アダムから始まり、捕囚後のペルシア時代までを網羅した、最も長大な神の民の歴史を描いた歴代誌家のそれである。
 この三つの歴史著作から分かることがある。それは、神の民イスラエルは民族的な転換期に、常に新しい神の歴史的企てによって自己自身とその信仰とを表明してきたということである。
 これとの関連で、紹介したい言葉がある。ヴェスターマンが『千年と一日』の序論で語った言葉である。ヴェスターマンはいう。「この文書(旧約聖書)は千年にもわたっている。千年もの時が、そのことにあずかっている。・・・それは、新約聖書において達せられる目的に至る長い旅であった。新約聖書に書かれていることは、ある一日の出来事に凝縮できる。ヨハネ福音書によれば、その日とは、人の子が上げられた日である。復活と同じように、十字架も『あげられること』、『栄光をうけること』の中に含めて理解されている。四つの福音書の記述がその目的としているその一日は、旧約聖書にとってもまたその目的なのである。この一日の到来のために、一千年の歴史が欠くことのできない前奏曲となっているのである。この一日は、実際のところ、そこに至るまでの長い道程を離れては理解することは出来ない。その千年は、この一日を離れては結末も、終着もないのである。」マタイが描く系図は、旧約聖書千年の歴史の結末、終着がイエスであると告げるのである。

 それにしても、神の民イスラエルを千年もの長きにわたる時の旅人たらしめたエネルギー提供源は何か。フォン・ラートは、「旧約はまさにつねに成長する期待の書として読まれる」と言った。このつねに成長する期待の最古の層は、アブラハムに与えられた土地約束(創世記12:7)である。しかし顕著なことにいかなる成就も、ヨシュアによる土地取得でさえ、この期待を満足させ、それに終始符を打つことはできなかったのである。
 歴史における―ヨシュアのもとでの土地取得という―成就は叙述された。しかしこの神の約束がこのことでもって最終的に成就したと考えられたわけではない。はるかに時代が進んで、ヨシュアのおよそ600年後、申命記は、イスラエルは根本的にはこの土地約束の成就以前にまだ立っていると信じており、ヤハウェの言葉に真実に適った実現をまだ未来に期待しつつ語っているのである。
 しかも、イスラエルはいかなる約束も無にすることなく、ヤーウェの約束を測り知れないものへと成長させたのである。イスラエルがいかなる約束も無にすることなく、ヤハウェの約束を測りしれないものへと成長させたということ、つまり神の成就の可能性にいかなる限界もつけずに、約束を未成就のままで来たるべき世代に伝え、神の負債として加算したということを知るとき、私たちは驚きを禁じ得ない。

 そしてマタイは、福音書の冒頭で記した主イエスの系図で、神の負債として加算された巨大な希望の成就を告げるのである。旧約聖書千年の旅がその目的地に到達したと宣言したのである。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)との主の招きがここ成就するのである。「さあ、肩から重荷を降ろそう」という、時の旅人の声が聞こえてくるようである。

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