プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまで十四代である」(マタイ1:17)。

 マタイがここに記す主イエスの系図は、限界をしらない神の慈愛と忍耐以外の何ものでもない。神の成就の可能性にいかなる限界もつけず、約束を未成就のままで来たるべき世代に伝え、神の巨大な負債として加算した期待が今、主イエスにおいて成就した、とマタイは宣言するのである。
 マタイは、その約束を父祖アブラハムの選びにまで遡る。それはパウロが万民とイスラエル(ロマ書9−11章)で語った次の言葉を彷彿とさせる。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されものなのです」(11:28−29)。マタイが記す系図には、取り消すことのできない「神の賜物と招き」が証言されているのである。

 神の民イスラエルの全歴史を網羅したこの系図は、転換点を強調する。「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまで十四代である」と。イエス・キリストは、この神の救済史の終点、目標なのである。
 この主イエスに至る神の歴史の最初の転換点はダビデである。それは、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」とあるイザヤ書11章1節以下以来、生きつづけてきたメシア待望の成就である。
 このイザヤの預言と密接に関連しているのが、ダビデに与えられた「わたしは慈しみを・・・取り去りはしない」(Ⅱサムエル7:15)、「わたしはわが油そそがれた者のために一つのともしびを備えた」(詩篇132:17)、というナタン預言である。
 ナタン預言は最高の度合で伝承を創りつづけた。このヤーウェの約束は決して忘れ去られることなく、次々と新たに解釈され、現実的な意味をもたせられたのである。ナタン預言に「あらゆるメシア的期待の歴史的起源と正当化が存在する」(フォン・ラート)のである。イスラエルが旅の目的を見失い、放浪者に堕することがなかったのは、ナタン預言のゆえであると言っても過言ではない。

 このメシア待望との関連で注目したいのは、アダムから始まり、ネヘミヤ後の時代に至るまでの最長の時間的広がりを包括する歴代誌である。
 歴代誌はアダムから始まり、捕囚後に至るまでの系図を記した後、ダビデから歴史叙述を開始する。これによって歴代誌が何を最重要主題としたかが示されている。しかも歴代誌の描くダビデ像はサムエル記下のそれとは全く違う。歴代誌はダビデを欠点のない聖なる王、厳かに語る王として描くのである。
 それは歴代誌が書かれた歴史的状況を考えると深い意味をもつ。歴代誌家が生きた時代は捕囚後、ペルシア王が支配する世界である。それは申命記的史家が大破局によって茫然自失した時代と違って、むしろ政治的には安定した時代であった。しかし、それは王のない、つまり独立国家をもたない惨めな時代であった。より厳密には、神の臨在を欠いた時代、それは言葉の最も厳密な意味で〈死の時代〉である。その時代に、歴代誌家は〈メシア伝承の監視人〉として、ダビデを欠点のない聖なる王として描いたのである。言い換えれば、彼がナタン預言の射程を捕囚後の時代まで引き延ばした時、その成就をまだ期待していたのである。

 マタイはこの系図で、旧約の民が過酷な歴史の中で待望しつづけた「キリスト(メシア)」(1:17)こそ、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」であると宣言したのである。
 マタイがイエスの系図で始めるこの事実は、マタイのある特徴を明らかにしている、と言った人がいる。マタイは、預言と成就の関係を歴史の中で示すことを試みているのであると。
 神の約束が成就したとする主イエスの系図は、ヨハネ福音書がその冒頭に記した、「言は受となった!」のマタイ版である。より正確には、ヨハネの「言は肉となった」は、マタイがここに記す主イエスの系図のヨハネ版なのである。マタイがこの系図で、神の言葉は歴史となったと語ったことで、ヨハネが語る「言は肉となった」は〈仮現論〉と解釈される可能性を閉じられたのである。

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