プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記4:1-15、マタイ5:21-26、Ⅰコリント15:50-57
讃美歌 312

 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。(創世記4:3−5)

Ⅰ.生への衝動
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記4章1節以下です。ここにはエデンの園を追放されたアダムとエバが、カインとアベルの二人の息子を与えられた喜びの後に起こった悲劇が伝えられています。兄カインが弟アベルを殺したのです。
 私たちは悲惨な事件が起きる度に、なぜこのような事件が起きたのか、それを引き起こした者の生育史を辿り、そこに深い闇を見ます。人間心理の深層、つまり無意識の研究で20世紀という時代の性格を形成したフロイトは、人間心理の深層に「死への衝動」があると語りました。死への衝動、「ネクロフィリア」(死への愛)とは、狭義には屍体に対する性的な愛の倒錯現象をいいます。さらに一般的には死や汚物に対する執着、屍体を前にしてそこに居続けたいとする欲求、そこからさらに一般化して、破壊を賛美したい気持ちなどを意味します。こうした異常な倒錯は別として、死への衝動は人間だれしもが持っているのです。
 このフロイトの弟子にE・フロムがいます。彼は、人間心理の深層には「死への衝動」だけでなく、「生への衝動」があるとしました。生への愛(バイオフィリア)は、生命を愛し、成長に関心と喜びを持ち、美しいものを求め、創造を賛美するのです。そしてフロムは、「死への衝動」も「生への衝動」も、それぞれ環境によって伝染するとしたのです。つまり、生命を愛し、成長を喜び、美しいものを称える人々の中で、人間は自分自身もまた命を愛する喜びを学ぶのであると。だから子どもは、バイオフィラスなオリエンテーション(生への衝動)が優勢な人々の間で育たなければならないと。

 きょう私たちは、花の日・子どもの日として、合同礼拝を行っています。私たちが今、現に生きている世界は、死への衝動が支配している世界です。この死への衝動に突き動かされる世界にあって私たちは、子どもたちが生命を愛し、成長を喜び、美しいものを求め、創造を賛美する人に育つ環境、バイオフィラスなオリエンテーション(生への衝動が優勢な環境)でありたいと願います。そのために、死への衝動に突き動かされ、弟アベルを殺したカインに何があったのかを理解したいのです。

 エデンの園を追放されたアダムとエバに、将来であり希望である子どもが生まれました。しかし、この祝福に満ちた喜びは、程なく、気も狂わんばかりの痛みとなるのです。カインがアベルを殺したのです。〈すべて命あるものの母=エバ〉がお腹を痛めて産んだ息子カインがアベルを殺したのです。これ以上の地獄があるでしょうか。息子ヨセフが死んだと聞いた時、父ヤコブはこう叫びました。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下っていこう!」(創世記37:35)。ここで起こっていることは、この時のヤコブの苦しみをはるかに超えているのです。それは、単に息子に先立たれた悲しみ、失望というのではないのです。腹を痛めた息子カインが弟アベルを殺したのです。
 御言は、この事件が起こる前の、カインとアベルの成育史については何も触れていません。ただ、「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」とだけ説明されているだけです。
 ちなみに、この物語を記している人は創世記2章で、人間の本来あるべき姿は、土を耕し、土に生きる人(2:5、15)であると語ったのです。アダムとエバから生まれた最初の息子カインは、「土を耕す者」になったのです。そのカインが、「羊を飼う者」アベルを殺したのです。御言はその経緯を次のように語ります。「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」 
 決定的なことが礼拝の場で起こったのです。人は神礼拝に失敗する時、隣人との関係において失敗するのです。言い換えますと、私たちが今、現に生きている世界が「死への衝動」に突き動かされているのは、神礼拝に失敗した当然の帰結なのです。モルトマンの言葉が心に突き刺さります。「『十字架につけられた神』は、『キリスト者の神』と混同されえないものである。なぜなら、宗教心理学的および宗教社会学的に分析をしてみれば、『キリスト者の神』は必ずしも常に『十字架につけられた神』ではないし、むしろそうであるのは極めてまれであるからである」。
 十字架につけられた神がキリストの神にならない限り、生命を愛し、成長を喜び、美しいものを求め、創造を賛美するバイオフィラスなオリエンテーション、生への衝動が優勢な環境を創出することはできないのです。

Ⅱ. 放浪者
 いったい、神礼拝の場で何が起こったと言うのでしょうか。これまで多くの研究者が、なぜアベルが優先されたのか、その理由を熱心に突き止めようとしてきました。新改訳聖書はここを次のように意訳しています。「彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」と。つまりアベルは最善のものを捧げた点でカインとは違うと。
 しかし最近の多くの注解者はこのような見方をしません。物語はもっと単純に、二つの対をなす文で記されているからです。
  カインは……持って来た  アベルは……持って来た  
  主は……目を留められた  目を留められなかった
 これによれば、カインが激しく怒って顔を伏せるのは無理からぬことです。アベルとの間にとりたてて言うほどの違いはないのです。「語り手は、アベルを受け入れカインを退けるという決定を、論理的に納得のいくようにすることを放棄してしまっている」と言った人がいます。言い換えますと、人知を超えた神の聖なる領域においては、人は口ごもるしかないのです。第三の天にまで引き上げられたパウロが、「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」と言っているようにです。

 なぜ神はアベルを受け入れ、カインを退けたのか、それについて論理的に納得のいく理由はないのです。それでも研究者たちはその理由を突き止めようとして、一つの解釈に至りました。出エジプト記33:19_「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」_を典拠にして、献げ物を神が受け入れるか否かの問題は、神の自由意志の事柄であるとしたのです。
 わたしは、献げ物を受け入れるか否かを、神の自由意志の問題とすることには違和感を覚えます。詩篇詩人の言葉、あるいは祭儀を糾弾した預言者たちの言葉を見る限り、神が献げ物を受け入れるか否かは、献げる側の問題なのです。つまり、神がカインの献げ物に目を留められなかったのは、カイン自身に問題があったからなのです。この後、献げ物を拒否されて激しく怒り、顔を伏せたカインに、神が語りかける言葉がそのことを浮き彫りにしています。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
 神はカインの心が罪に支配されていること、つまり死への衝動が強いことを問題にされたのです。カインの成育史に何があったというのでしょうか。聖書はそのことについて何も語っていません。ただ、「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て」と記すだけです。

 先ほど触れましたように、聖書は「土を耕す」ことに人間の本来のあり方を見ています。カインはまさに「土を耕す者」となったのです。なのになぜ、カインはその成育史において死への衝動を強めていったのか。
 実は、創世記2章のエデンの園の物語で語られる「土を耕す人」と、創世記4章が記す「土を耕す人」との間には、創世記3章の堕罪物語が横たわっているのです。言い換えますと、創世記2章でアダムが土を耕したとき、そこは、エデンの園、つまり楽園、パラダイスでした。しかし、カインは呪われた大地で、つまり茨とあざみの生える荒廃した大地で糧を得るために、額に汗して働き、ついには土に返るという虚無の上で日常を営んでいたのです。カインは、私たち現代人同様、死への衝動が強い環境で育ったのです。結果、死への衝動に飲み込まれてしまったのです。

 物語はこの後、礼拝の場から野原に移ります。「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」のです。
 わたしは、この後、カインに語られた神の言葉ほど絶望的なものを知りません。神は弟殺しカインにこう言われたのです。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
 この神の宣告に対するカインの応答は、激しく私たちの心を締め付けます。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
 負いきれない罪を背負い、神の御顔を避けて、地上をさまよい、さすらう者となったカイン、それは〈わたし自身〉であると語った人がいます。アウグスティヌスです。彼は『告白』をこの現実を見つめることから書き出したのです。「おのが死の性を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが『たかぶる者をしりぞけたもう』ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です」と。
 負いきれない罪を背負い、神のみ顔を避けて地上をさまよう、さすらい人カインは〈わたしたち〉一人一人なのです。わたしは人を殺したことなどない、だからカインではないと言われるでしょうか。主イエスは言われます。「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(マタイ5:22)。わたしたちは皆、地獄の火に投げ込まれるカインなのです。

Ⅲ. 救済の恵み
 わたしはカインである! この厳然たる事実を前にして、人はなお生きていけるでしょうか。ヤスパースは言います。人間が限界状況に対して示しうる反応には三種類ある。第一は、破滅、第二は、妥協と逃避、第三は、「形而上的なものへの意図」、これこそ限界状況を本当の意味で越えさせる、と。
 ヤスパースはいうのです。同じ限界状況を生きながら、一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身を投ずる者もいれば、自己を無限に荒廃させてのたれ死をする者もいる。また、生命を愛し、成長を喜び、美しいものを求め、創造を賛美する人もいると。
 確かに、フロイトやフロムが言うように、私たちの性格を形成する上で環境が大きな影響を与えます。しかしヤスパースは、人間はその環境を超える存在でもあるというのです。死への衝動が強い世界にあって、生命を愛し、成長を喜び、美しいものを求め、創造を賛美する人になりうるというのです。どうしたら、死への衝動がまさる世界を生きる私たちが、生命を愛し、成長を喜び、美しいものを求め、創造を賛美する人になれるのでしょうか。カインを巡るこの物語はその秘義を伝えているのです。

 取って食べてはならない善悪の知識の木から取って食べ、楽園から追放された男と女から生まれたカインは、「土を耕す者」として来る日も来る日も「呪われた」大地、茨とあざみに覆われた大地を耕し、わずかばかりの糧を得て、終わりには土に返る日々を送っていました。
 虚無に服した被造物、この限界状況を前にしてカインは、ヤスパースのいう第一の反応、弟アベルを殺すという破滅的行動(一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身を投ずる)に出たのです。カインこそは、呪われた地で生まれた最初の人間なのです。このカインをもって人類の歴史が、死の歴史が始まるのです。
 弟アベルを殺し、負いきれない罪を負ったカインが、さらなる限界状況を前にして取ったのは、ヤスパースのいう第二の反応、妥協と逃避でした。「今日、あなたがたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」

 驚くべきことにこの物語は、裁かれた弟殺しの姿では終わらないのです。限界状況を前にして、弟殺しという、一切を廃墟に還元する破壊行動をとり、負いきれない罪を負って妥協と逃避を口にするカインに語られた、驚くべき神の言葉が語られるのです。神は、「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と言われたのです。
 この神の言葉によって、この物語はその最も重要な点に到達したのです。すなわち、この物語の最後の言葉を語るのは、カインではなく神であり、しかも神は、カインの罰を科された生を厳重な守りのもとに置かれるのです。「しるし」は、カインを辱めるものではなく、これ以後カインが神によってその中に置かれることになる不思議な保護関係を暗示するのです。
 つまり神は、怒りのあまり顔を伏せ、弟を襲って殺したカインの顔を上げてくださったのです。この、神がカインの顔を上げてくださる救済の恵みこそ、真に限界状況を越えさせる「形而上的なものへの意図」なのです。
 改めて言うまでもなく、聖書はこのカインの額に記された究極の「しるし」を、十字架のキリストに見たのです。呪われた大地と格闘し、顔に汗して糧を得、ついに土に返る人間存在の根源的な渇きは、十字架のキリストによって癒されるのです。ここに、神がカインに求められた戸口に待ち伏せる罪を支配するということがあるのです。これとの関連で紹介したいのは、黒田平治氏が『キリストの足音』に記した次の一文です。この方は、敗戦後数年して東大理学部数学科の副手に採用されながら、その一年後に喉頭結核のために入院、闘病、そして召されていった「無名の一数学者」です。この人の遺稿集の中にこんな言葉があります。
 「わたしたちは罪を是認すべきではない。罪と戦わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。だが人は罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す。
 ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう。そして勝利をいただこう。これ以外に罪に勝つ方法はないからである。」
 アベルの血を吸って呪われた大地は、キリストが流した血によって清められたのです。ゴルゴダの丘、この十字架、この血、この裂かれた肉、すなわち聖餐共同体に、罪人が迎え入れられているのです。これこそ神によって恵みのうちに再び与えられた生命の国、復活の国。これこそ朽ちることのない希望と、待望と、忍耐の、開かれた門。生命の木、キリストの十字架、堕落しているにもかかわらず保持されている神の世界の中央__これこそわれわれにとって、楽園物語の終わりなのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか!」(ヘブライ4:16)。

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