プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「ユダはタマルによってペレツとゼラを、…サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオペドを、…ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ…」(マタイ1:3、5、6)。

 マタイがここに記したイエスの系図で特に注意を引くのは第一段落、アブラハムからダビデまでの系図に出てくる四人の女性たちである。「彼らは汚辱に染まった女性たちである」と解説した学者がいる。つまり、性的不道徳の嫌疑を受けている婦人たちの名を挙げることによって、マタイは、イエスがマリアから生まれたという出生のいかがわしさを放免しようとしたのではないか、と。しかし旧約聖書において、タマルはその「義」が(創世記38:26)、ラハブもその行動が(ヘブライ11:31、ヤコブ2:25)賞讃されている。しかもユダヤ教ではルツはメシアの出身部族の母として賞讃され、また、ウリヤの妻バト・シェバに関しては、罪はいつもダビデにのみ帰されているのである。
 マタイが、これら四人の女性の名をイエスの系図に書き込んだ意図は別のところにある。それは、いずれも外国人であったということである。しかも、四人の女性たちはイスラエル史において、いずれも転換点に生きていた。マタイは、「マリアからメシアと呼ばれるイエス」が生まれると記すことで、今、歴史の展望は決定的な時点に達したとしたのである。マタイは、これら四人の婦人の名前によって、イエスにおいてその目標に到達する(28:19!)、あらゆる異邦人を包含する神の行動を指し示そうとしたのではないか。

 神の救いの計画はあらゆる異邦人を包含する! それこそ、神がアブラハムを召し出された目的なのである。神は何も生み出し得えない死の世界、呪われた世界(創世記2:4b—11章)を、命溢れる祝福された世界に作り替えるために、アブラハムを地上のすべての民族の「祝福の源」として選ばれたのである。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と。

 アブラハムの召命で語られたすべての民の「祝福の源」の約束は、イエス・キリストにおいて成就するのである。パウロはそれを次のように証言した。「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました!」(ガラテヤ3:7−8)。しかもこの成就は旧約のすべての約束、希望、期待を遥かに凌駕するのである。
 パウロはここで、「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」(フィリピ3:5)であることが「祝福の源」であると言っているのではない。ヨハネの言葉で言えば、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」(1:13)者、つまり信仰によって生きる人こそ、「祝福の源」であると言ったのである。
 信仰によって生きる人とは誰か。それは、「十字架につけられた姿ではっきり示された」イエス・キリストによって生きる人のことである。この「十字架につけられた姿ではっきり示された」イエス・キリストによって生きることにこそ、マタイが彼の宣教的ヴィジョンのゆえに福音書を書こうとした、つまり、「イエスの生涯(伝記)」を書くのではなく、危機に置かれていた共同体に、召命と使命(宣教)をどのように理解すべきかについての指針を与えるために書こうとしたマタイの宣教的ヴィジョンなのである。

 呪われた世界を、命溢れる世界にするために御子を十字架へと遣わされた聖書の神こそ、正しく宣教的なのである。それを神学用語で〈ミッシオ・デイ(神の宣教)〉と言う。父なる神が子なる神を派遣し、父なる神と子なる神が、聖霊なる神を派遣して、呪われた世界を祝福するのである。
 教会はこの神の宣教、ミッシオ・デイに参与する限りにいて宣教的なのである。教会になるのである。マタイは、危機に直面した教会に、十字架のキリストによってのみ生きるその道筋を、ミッシオ・デイ(神の宣教)として示したのである。それはマタイが福音書を閉じた、復活者イエスの次の言葉に端的に描かれる。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:18−19)。「世界宣教に乗り出した時ほどキリスト教がキリスト教らしく、またイエスと一体化しており、未来への途上にあったことはなかった」(マイヤー)。

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