プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記4:16-26、マタイ18:21-35、Ⅱコリント1:1-10
賛美歌 532

 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまな道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。(創世記4:19−22)

Ⅰ.異人(ストレンジャー)
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記4章16節以下です。ここには弟アベルを殺し、呪われた土よりもなお呪われた者となり(4:11)、耕作地から追放されて放浪者(4:12)となったカインが町を立て(4:17)、子を産み、そして、カインから七代目レメクが、77倍の復讐を誓うまでの、カインの系図が記されています。
 聖書はこの後5章で、アダムから始まりノアに至る系図を記します。つまり、旧約聖書の編集者は、天地万物が完成して以来の神と人間の歴史、より具体的には人間の罪の歴史に、ここで一旦区切りを置いたのです。その意味で私たちは、神が造られた世界に人間の罪が拡大してゆく歴史に、ここで立ち止まることを求められているのです。
 何がここで語られているのでしょうか。語り手は、このカインの系図で、その後の人類の発展、文化、さらには人間の気質を描き出したと言った人がいます。語り手はこのカインの系図で、最初の町はどのようにして建てられたのか、さまざまな職業の分化はいつ始まったのかという、基本的な文化史的問題に答えようとしたのです。つまり、今、私たちが現に生きている世界の形がここに始まるのです。聖書記者はそこで立ち止まることを求めたのです。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(ゴーギャン)を立ち止まって見つめることを求めているのです。

 語り手によれば、人間は神により土の塵で形づくられ、命の息を吹き入れられて、生きる者となりました。そして、その人間の本質は、「土を耕す」ことにあるとしたのです(2:5、15)。
 しかし、程なくこの〈土を耕す人〉の本質に亀裂が入ります。取って食べてはならないと言われた「善悪の知識の木」を取って食べたことで、「土はのろわれるものとなった」のです。以後、人間は、茨とあざみが生える大地と格闘し、顔に汗して糧を得る者となったのです。
 このアダムとエバから生まれた最初の息子カインは、父と同じ「土を耕す人」となります。そのカインが長じて、弟アベルを殺したのです。同じようにそれぞれの収穫物を神にささげたのに、神は、アベルとその献げ物には目を留められたのに、自分の献げ物には目を留められなかったことで、カインは激しく怒り、顔を伏せたまま、神の前を後にします。そしてアベルを野原に誘い出し、襲いかかって殺したのです。
 神は弟殺しカインに言われます。「何ということをしたのか。……今、お前は呪われた者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。……お前は地上をさまよい、さすらう者となる!」
 こうして「土を耕す人」は、耕作地から追放され、「地上をさまよい、さすらう人」になったのです。ここに、人間は土を耕し、土と共に生きる者から、「地上をさまよい、さすらう者」となったのです。

 土を耕す者が放浪者になった! そのことを黙想していた時、赤坂憲雄が『異人論序説』の中で語った言葉が思い起こされました。赤坂は、定住農耕民の観念は秩序と混沌の二元論からなっているとし、それに対して「異人」(ストレンジャー)、つまり放浪者とは何者であり、それは、いかなる仕方で歴史に登場してきたのかを考察したのです。
 赤坂は言います。定住農耕民(=土を耕す人)の観念を支配する世界は、耕作地を中心とした同心円的空間からなっている。そしてこの構造自体に、「異人」つまり放浪者が生まれ出る基礎的な条件が内包されていると。赤坂によれば、〈土地〉とは、耕された大地であり、幾世代にもわたる無数の人々の労働の結晶であり、世代から世代へと承け継がれてゆく父祖たちの時間の堆積なのです。それが分厚い層をなして日常という地平を支えているのです。そして、この日常が支配する昼の世界の外に、閉めだされた禁忌の空間、カオスの闇の領域があり、そこに〈異人〉、つまり放浪者がひそんでいるというのです。
 私たちの国が敗戦後の混乱から立ち上がり、高度経済成長を遂げた時、若者たちは耕作地から引き離され、都市へと追いやられました。その頃流行った歌に、内山田洋とクールファイブの『東京砂漠』があります。「空が哭いている、煤け汚されて、ひとはやさしさをどこに棄ててきたの。……ビルの谷間の川は流れない、ひとの波だけが黒く流れて行く」と歌い上げたように、個人は孤独に、おそらく歴史上のいかなる時よりも孤独となったのです。まだ年端もいかない幼い者たちが、夜の闇を徘徊する社会が出現したのです。不気味な、戦慄すべき夜の闇をさまよう子どもたちに、私たちは、土を耕し、土と共に生きる人間の本質がいかに変質してしまったかを見るのです。

Ⅱ. 都市の闇
 耕作地から追放され、「地上をさまよい、さすらう者」となったカインは「エデンの東、ノド(さすらい)の地に住」み、そこに町を建てたとあります。地上の放浪者たちが身を寄せ合う場所、それが都市であると聖書記者は言うのです。
 このカインによる町の建設と、住む場所を持たない放浪生活は調停不可能であると言った人がいます。耕作地から追放された放浪者が、町に定住するのは理屈に合わないというのです。そうでしょうか。世界のスラムがどのように形成されているかを見れば、放浪者が都市に住みつくことは理屈に合わないどころか、理屈そのものなのです。聖書記者は、耕作地で生きていけなくなった者たちが身を寄せる場所、そこに都市の本質を見ているのです。

 そして語り手は、放浪者が身を寄せるために建てたカインの町は、カインから7代目のレメクの時に重大な節目を迎えたと語ります。「レメクは二人の妻をめとった」のです。それは神が定めた結婚の秩序(2:24)を破壊するカオス、夜の闇です。ここに耕作地を離れ、放浪者となった人間の変質の一つの姿があるのです。その変質は、二人の妻から生まれた三人の息子たちに端的に描かれます。「ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖、その弟ユバルは竪琴や笛を奏でる者の先祖、そしてトバル・カインは青銅や鉄でさまざまな道具を作る者」となったとあります。
 特に、最後に登場した鍛冶職人トバル・カインは、決定的に新しい何かを人間の文化史にもたらしたのです。銅や青銅とは異なり、鉄を加工する技術は、人類の歴史に新しい段階を開いたのです。鉄器、すなわち人間は剣を手にしたのです。「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」(アンドレ・ヴァラニャック)といった人がいますが、語り手は、この発見が人間を際限のない復讐へと駆り立てたと語るのです。剣を手にしたレメクは、77倍の復讐を誓ったのです。
 「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍。」
 ある研究者は、この段落で語り手が最も重要なこととして語ったのは、この「剣の歌」であると言いました。この歌は、聖書が記される以前から存在していた非常に古い復讐歌です。それを聖書記者は取り入れて、文明の進歩向上の裏面、すなわち、技術の進歩に伴って進行した人間の気質の変化を表現したのです。
 呪われた者となって耕作地から追放され人間は町を建て、そこで富を手にします。しかし、その富は再分配されることなく、鍬を持つ手に剣を握り、奪い合う世界が出現したのです。今、世界を覆いつくす、国と国、民族と民族、人と人との取り止めのない争いの根がここにあるのです。

 富を手にし、勝ち誇るレメクを見ていて、アルビン・トフラーが『パワー・シフト(力の移行)』で語った言葉が思い起こされました。トフラーは言います。「カネは元来、必要もしくは欲望を満たす手段としてみられるが、同時に欲望の大きな解放者でもある」と。耕作地から追放されて放浪者となったストレンジャー(異人)たちの欲望が解放されたのです。人間は自然から引き離されて都会へ追いやられ、不気味な人種になり果てたのです。
 どれほど不気味な人種になり果てたのか、私たちはその姿をヒロシマ・ナガサキに投下された原爆にみたのです。武器を持たない女、子供、老人の住む街に原爆は投下されたのです。わたしは、このピカの光ほど暗い闇を知りません。高度に発達した科学技術文明を生きる人間は、レメクが誓った77倍の復讐をはるかに超える復讐を誓う者となったのです。世界はいま、敵意という張り詰めた空気が破裂する声を聴き続けているのです。殺せ!殺せ!殺せ!という声を聴き続けているのです。

Ⅲ. 十字架の光
 それにしても私たちは、富を手にした異人たちが欲望を解放し、際限のない復讐が渦巻く都市砂漠を飢えてさまよい、渇きの中で死を待つしかないのでしょうか。
 語り手はこの後、カインに殺されたアベルに代わって、アダムとエバに子が授けられたことを伝えています。「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである。セトにも男のが生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。」
 わたしは、この段落で語り手が最も重要なこととして語ったのはこの系図ではないかと考えています。このあと創世記5章を見ると分かるように、アダムからノアに至る系図は、ここで生まれたセト、そしてエノシュへと続くのです。因みに、エノシュという名は、「人間、とくに弱い死すべき人間」という意味だといわれます(詩9:21、申32:26)。つまりアダムからセト、エノシュへと続くこの子らは、77倍の復讐を誓うレメクとは正反対の質を保つ人間なのです。
 そして語り手が、エノシュの誕生をもって、天地万物以来、雪崩のように拡大する人間の罪の歴史に一つの区切りを置いた次の一句はまことに象徴的です。「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」

 人間は弱さの自覚の中で、神の名を呼び始めたのです。富を手にし、欲望が解放され、際限のない復讐が語られた時代に始まった新しい出来事、それは人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識したということです。人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを経験したのです。そのとき人間は根本的な問いを発したのです。彼は深淵を前にして救済への念願に駆られ、「主の御名を呼び始めた」のです! 
 語り手は、無力さの自覚の中で主の御名を呼ぶこと、そこに欲望が際限なく解放された人間の渇きを癒すものがあるとしたのではないでしょうか。
 そのことを黙想していた時、第三の天にまで引き上げられたパウロの経験に導かれました。パウロはそのときのことを「体のままか、体を離れてか」は知らないと言いつつ、第三の天、つまり神の国に引き上げられた経験を語ります。パウロはそこで、「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」というのです。
 なんという甘美な経験でしょうか。しかしパウロはすぐその後で、信仰者の誰もが羨む至福、最高の栄誉、第三の天に引き上げられた経験を誇らないように、サタンからの使い、肉体の棘が与えられたと語るのです。そしてパウロは、この肉体の棘との戦いの中で、ある決定的な経験をするのです。サタンとの闘いに疲れ果て、死んだように倒れたパウロは、「わが恵み、汝に足れり。わたしの力は弱いところに完全に現れる」という主イエスの言葉を聞くのです。
 この経験を経てパウロは言います。私にとっての誇りは、第三の天で聞いた「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」ではなく、肉体の棘をもつ弱さであると。なぜなら、その弱さの中で、「わが恵み、汝に足れり」というキリストの言葉を聞くからであると。

 私たちはどちらを誇りとしているでしょうか。第三の天に引き上げられるような経験でしょうか。それとも肉体の棘、自分では解決不可能な罪の存在であることでしょうか。私たちもパウロが誇りとした誇りを誇れたら、なんと幸いでしょうか。
 結びに、この幸いについて語られた、罪の赦しを巡る主イエスとペトロの会話を聞いて終わりたいと思います。
 罪を犯しても悔い改めようとしない兄弟のために、心を合わせて祈りなさい。それが天国の鍵を委ねられた教会の使命であるとの、主イエスの教えを聞くと、ペトロがこう尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」すると、主イエスは、まるでレメクの77倍の復讐を彷彿とさせるかのようにこう言われたのです。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい!」つまり、罪の赦しには際限はないと。言い換えますと、罪の赦しは人間にできることではないということです。
 そのことを主イエスは、王から一万タラントンの借金を許されながら、仲間に貸した百デナリオンを許さない家来の譬で語られたのです。主イエスはこの譬えで、罪の赦しは人間には不可能であることを抉り出されたのです。つまり、主イエスはこの譬えで、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と豪語するペトロを、あなたは一万タラントンの借金を赦されながら、百デナリオンを返せない仲間を赦せずに、牢に閉じ込められた僕であると言われたのです。
 天国の鍵を委ねられた教会は、この現実を知らなければならないのです。知って、パウロのように肉体の棘、サタンの使いを離れされてくださるようにと祈ること、創世記4章の言葉で言えば、弱さの自覚の中で「主の御名を呼」ぶのです。
 その時わたしたちは、「わが恵み、汝に足れり!」との、主イエスの言葉を聞くのです。ここに天国の鍵を委ねられた教会の本質があるのです。ボンヘッファーはそれを次のように表現しました。「教会は……わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがその代理的行為においてわれわれを互いに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験されるのである。教会は恐らく、大都市における聖晩餐を守る集まり(ゲマインデ)という状況において、最も確信をもって現われ出るであろう」。
然り、聖餐共同体は、耕作地を追われ、放浪者となった者たちを、天の都を目指して旅する巡礼者に生まれ変わらせるのです。わたしが強い影響を受けたカトリックのミサ典礼書は、聖餐の初めに次ぎのような祈りを置いています。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンとぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちの命の糧となるものです。」
わたしたちが食べるパンとぶどう酒は呪われた大地の恵み、労働の実りだというのです。なぜ、キリストが十字架で流した血が、呪われた大地を清めたのです。私たちは主の晩餐によって、土を耕す人なのです。ここに人間の質はキリストの形となるのです。「このパンとぶどう酒の神秘によってわたしたちが、人となられた方の神性に預かることができますよう」と祈るようにです。呪われた大地よりもなお呪われた放浪者が、主の食卓で第三の天にまで引き上げられるのです。なんという至福でしょうか。
私たちはカインの末裔レメクが77倍の復讐を叫ぶ大都市で、聖晩餐を守る群として、放浪者を天の都を目指し旅人、寄留者に造り替えるのです。然り、主の晩餐において「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌」とせよが実現するのです。もはや復讐はない!のです。

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