プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:11−12)。

 私は、神のみ子イエス・キリストが厩で生まれた時、その地方で野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちの所に、主の天使が現れ、救い主の誕生を告げるこの物語に強く心を惹かれる。この物語は、「ルカの前史全体の核心」といわれている。それは、羊飼いたちの物語が、特に10−11節の天使の言葉と、14節の天の大軍の賛美が、イザヤ書52章1節以下(七十人訳)、つまりエルサレムに神の帰還を告げる喜びの報せが反響していることからも分かる。
 エルサレムへの神の帰還を告げる預言が羊飼いの物語に反映していることは大きな意味を持つ。エルサレムの解放を告げるイザヤ書52章1節以下の段落は、「苦難の僕」の歌と結びついているからである。ルカは、苦難の僕、十字架のキリストを眼前に置いて羊飼いの物語を書いている、と言っても過言ではない。

 ところで、羊飼いがここに登場するのは、「イエスが羊飼いの王であるダビデに結び付けられるためというだけではなく、神の国のルカの招待客名簿にある貧しい者、体の不自由な者、目の見えない者、足の不自由な者(14:13、21)の中に、彼らも属しているからである」といった人がいる。イエスの時代、羊飼いは軽蔑された存在、卑しい職業、つまり徴税人や罪人、遊女と同列の「貧しい者」の中に属していた。そのような人々がメシア誕生の最初の報せを聞いたのである。
 社会の底辺を生きる人々に神の国の到来を告げるこの記事を読みつつ、シモーヌ・ヴェイユの言葉が思い起こされた。彼女は言う。「不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人たちにとって、神の御国なんて、あまりに縁遠いものであるから。ただ、十字架について語ること。神が苦しんだのだ。」
 天使はメシアの誕生を、つまり神の国の到来を不幸な人々、羊飼いたちに語ったのである。このメシアは、羊飼いたちにとって決して縁遠いものではない。メシアは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている!」のである。ルカがここで描くのは、シモーヌ・ヴェイユの言う「ただ、十字架について語ること。神が苦しんだのだ」ということなのである。

 このあと、天の軍勢は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と高らかに賛美する。これと同じ賛美を私たちは、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城される時にも聞く。その時、この賛美を口にするのは天の軍勢ではなく、弟子たちである。彼らは「こぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し」たのである。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と。
 しかし、主の弟子たちの賛美と、羊飼いたちが聞いた天の軍勢の賛美には本質的な違いがある。天の軍勢は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を前にして神を賛美しているのに対して、主の弟子たちは「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び」、つまり「行いにも言葉にも力ある預言者(イエス)」を喜び、声高らかに神を賛美しているのである。言い換えれば、天の軍勢は苦難の僕を賛美し、弟子たちは栄光の主を賛美しているのである。そして、栄光の主を賛美した弟子たちはこの後、主イエスが十字架刑に処せられると、望みは尽きたと言って、肩を落とし、悲しい顔をして自分の町に帰ることになる(24:13以下)。
 それは羊飼いたちがとった行動とは正反対である。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」のである。それにしても、羊飼いたちはどこへ帰って行ったのか。もはや苦しみも悩みも嘆きもない、神の国のような場所か。そうではない。「野宿しながら、夜通し羊の群れの番」をする場所、即ち、この世の最低辺へと帰って行ったのである。羊飼いたちが帰って行った場所は同じでも、しかし、彼ら自身はまったく別人に変えられていた。彼らは「神をあがめ、賛美しながら」帰って行ったのである。私たちはどちらの賛美を歌っているか。羊飼いか、それとも主の弟子たちか。

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