プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記6:1-13、マルコ14:32-42、Ⅰペトロ3:15-22
讃美歌 511

 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。……その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。(創世記6:5−9)

Ⅰ. 実現した神の恐れ
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記6章1節以下、いわゆるノアの洪水物語の前夜にあった出来事です。神は、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になっ(て)、……地上に人を造ったことを後悔し、心を痛め……人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」滅ぼすと決意されたという記事です。誰がこの神の決意を前にして、凍りつくような恐怖を覚えずにいられるでしょうか。ここに描かれているのは、いわゆる一つの終末論的な世界審判なのです。世界の終わりなのです。

 ところで、この神の決意を伝える箇所は、8節と9節の間が一行開いています。8節まではイスラエルが歴史上もっとも栄えたダビデ・ソロモン王の時代の人がまとめた資料であり、9節から13節はイスラエル民族最大の危機、バビロン捕囚の時代の人がまとめた資料であることがわかっています。
 後の編集者は、この二つの伝承を一行開けて、そのまま並置したのです。この後に続く洪水物語では、二つの伝承は一つに結び合わされているのです。しかし、神が造られたものを全て滅ぼすと決意された伝承は一つにまとめられることなく、並置されているのです。なぜ? それは、ノアが滅びを免れた理由を一つにできないほど、二つの伝承は相反するからです。一人は8節、ノアが残されたのは「主の好意を得た」、つまり神の恵みによるとしたのに対して、もう一人は9節、ノアが残されたのは、「神に従う無垢な人で……神と共に歩んだ」からである、つまりノアの信仰に滅びを免れた理由を見ているのです。
 編集者は、ノアが残されたのは神の恵みによるとした伝承も、ノアの信仰によるとした伝承も、共に同等の真理があるとして、二つの伝承を調整することなくそのまま伝えたのです。私たちも編集者の意図を汲み、それぞれの伝承に注意深く耳を傾けたいと思います。

 そこでまず注目したいのは1〜4節です。ここでヤーウィストが、世界と人類の置かれている根本的状況を記した原初史(2:4b−11章)はまったく新しい段落に入ると言った人がいます。語り手はこれまで、アダムとエバの不服従に始まり、カインによる弟殺しを経て、際限のない復讐を誓うレメクに至る、雪崩のように拡大する罪の様を描いてきました。しかし、今、ここで起こっていることは、それ以上考えられない恐るべきこと、神が造られた世界全体の堕落なのです。神の子ら、すなわち天上の神的存在が人間と混ざり合い、それによって神が定めた、天と地の創造に適った秩序が崩壊したのです。
 この破局はそれ以前のすべての破局を超えているのです。今や人間界と天上界との境界が崩れたのです。神の子らが人間の娘たちと結婚し、娘たちは「大昔の名高い英雄」たちを生んだのです。
 宗教学者は、これとよく似た英雄伝説が古代ギリシアやインドにもあると言います。それらによれば、歴史の黎明期に、人間を超えた超人が活躍する英雄時代があったのです。
 聖書記者も、古代世界のどこにでもある英雄時代を描いたのでしょうか。そうでないことは、文書の構成からわかります。英雄伝説を語るのであれば、神の子らが人間の娘たちのところに入った頃、大昔の名高い勇士たちが地上に現れたと語る4節は、3節の後でなく、2節に続けて然るべきです。しかし聖書記者は2節と4節の英雄伝説の間に3節、天と地の境界が崩れたことに対する神の裁断、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」を置いたのです。

 これが英雄伝説でないとしたら、では、語り手はこの物語で何を伝えようとしたのでしょうか。私は、善悪の知識の木から取って食べた人間は、どこまで神に近い存在になったのかを描いたのではないかと考えています。だからこそ神の裁断は、おのおのの好むままに人間の娘を妻とした「神の子ら」には向けられず、人間に向けられているのです。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」と。
 言い換えますと、人間は神の子らが伴侶として選ぶほどに、神に近い存在になったのです。それは創世記3章の結びで、「永遠に生きる者となるおそれ」(22節)があると語られた恐れが現実のものになったということです。時は千年の後も「栄華を極めた」と言われた時代。富と知識を手にし、神のように振舞う人間を前にして、聖書記者は底知れぬ不安、恐れを覚えているのです。

Ⅱ. 神の苦悩
 「善悪の知識の木」の実を取って食べ、富を手にした人間は、限りなく神的存在に近づいたのです。天上界と人間界を分かつ境界が崩れるほどにです。結果、神は創られた世界を洪水によって破壊することを決意されたのです。
 それにしても、ご自分が造られた世界を自らの手で破壊するとは、どれほどの決断だったのでしょうか。その経緯を伝えているのが5節から8節です。この段落は、原初史において特に重要で独特な構成部分をなしていると言った人がいます。語り手はこれまで一貫して、伝承を元にして語ってきました。2章の楽園物語も3章の堕罪物語も、また4章のカイン物語やレメクの復讐、そして6章の天使の結婚においても、語り手は古い伝承を元に、時には非常に独特な手を施しながら原初史の素材として組み合わせたのです。
 しかしここは違うのです。私たちはここで、人間についての神の評価を読み、神の決意について聞くのです。しかもこれらの言葉は、語り手以前のいかなる伝承にも見出せないのです。つまり、語り手はこの四つの節で初めて、まったく自由に、自分自身の言葉を語っているのです。その点で、この段落は極めて重要です。これらの言葉は、単に洪水物語のみならず、世界と人類の置かれている根本的状況を記した原初史全体を理解するための基本的な意味を持っているからです。

 これまで語り手は、罪が雪だるま式に拡大した事実は描いていますが、それについて特別な価値づけは何もしていません。ここで初めて私たちは、神自身の口を通して、人間の罪に対する、著者自らが熟考した言葉を聞くのです。
 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
 この神の後悔は直接的には、直前で語られた天使の結婚による天と地の秩序の破壊に起因します。しかし、ここではそれが、人間全体への罪の浸透として描かれるのです。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧に」なった!と。
 こうしてヤーウィストが描く原初史は、罪が頂点に達したここにおいて、読者を、無秩序となった地上から、天上の神のもとへと引き上げるのです。そして大胆にも、神の悩める心の中を垣間見せるのです。神の苦悩、痛み、幻滅を描くのです。「わたしはこれらを造ったことを後悔する」と!

 後悔する神! それは神を冒涜しかねないぎりぎりの表現です。その表現をもって語り手は、常に悪いことばかりを思い計る人間を前にした古代人の恐怖を描いたのです。全てが奈落の淵に立っていると!
 ちなみに、「後悔する」とは、「自分自身を苦しめる」と訳すことができる語です。神が自らを苦しめるというこの表現は、まことに激烈な表現です。そのことを黙想していた時、宗教学者エリアーデの言葉が思い起こされました。エリアーデは、バビロニアの洪水物語の中には、人間の滅びを神が悼む表現があると言い、しかし、「ヤハウェは人間の堕落を罰し、その大洪水の犠牲者を悼むことをしない」と断じたのです。
 わたしは、エリアーデのこの見解に違和感を覚えます。違和感とは、聖書の神とバビロニア神話の神々とが同列に置かれて論じられていることです。宣教学者デイビッド・ヴォッシュが、社会福音派の神について語った言葉があります。「社会福音派運動の神は、人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとんど変わらない愛と憐れみという存在だった。」
 バビロニア神話はもとよりギリシア神話も、また日本の八百万の神々も皆、ヴォッシュの言う「人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとんど変わらない愛と憐れみという存在」ではないのか。だから、人間の滅びを神が悼むなどと言うロマンチックなことが語られるのです。
 問題は、キリスト教会の中に、聖書の神と全く次元を異にする「愛と憐れみという存在」を信奉する者がいることです。彼らは、「同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えてしまった」のです。贖い主キリストは慈悲深い賢い教師イエスに、また霊的な天才で人類の宗教的能力が十分に開花された者になってしまったのです。
 
 それにしても、聖書の神を知らない人の、「ヤハウェは人間の堕落を罰し、その大洪水の犠牲者を悼むことをしない」との批判に、私たちはどう答えれば良いのでしょうか。そのことを思い巡らしていた時、第一ペトロの言葉に導かれました。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。……霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です!」
 第一ペトロの著者は言うのです。神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち、つまりノアの洪水で滅んだ者たちを救うために、神の御子イエス・キリストは!天を引き裂いて地に降り、十字架の死を遂げられたあと、陰府にまで降られたと! 洪水で犠牲となった人間を悼むバビロニアの神々の中で、イエス・キリストのように、人間の理想的属性では考えも及ばぬ苦しみを苦しまれた神が一人でもいたでしょうか。

Ⅲ. 残りの者
 そして私たちは、この十字架のキリストという、言葉に言い表しえない神の痛み、苦悩の余韻の中で、「しかし、ノアは主の好意(恵み)を得た」という言葉を聞くのです。ノアが受けた「主の恵み」とは、やがて十字架のキリストに啓示される神の痛みです。
 ちなみに、「ノアは主の恵みを得た」とは、ノアは洪水で滅ぼされた他の者たちと何も変わるところはなかったということです。それは、洪水物語の結びの句が端的に伝えています。洪水後、ノアが祭壇を築き、犠牲を捧げると、神はその香りを嗅いでこう言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ!」
 地上から人を拭い去ることを神に決意させた人間の心の悪は、洪水後も変わっていないのです。では、なぜ、神は洪水を起こし、生きとし生けるものを全て滅ぼされたのでしょうか。こんなことを言った人がいます。「罪を裁く神の恐るべき怒り、それは、神の救済意思を純粋の奇跡として理解させる基盤である」と。然り、十字架のキリストに示された神の恵みは私たちの理性では解きえない非合理、その解きえない非合理を知る鍵が、罪を裁く神の恐るべき怒りなのです。同情的イエスをカルバリーのキリストに取って代えてしまった社会福音派が語る神の国が、「裁きなしの約束の成就」であると言われる所以です。

 罪に対する神の徹底的な怒りゆえに洪水物語は、この点こそ神学的に最も重要なのですが、一つの終末論的な世界審判を提示しているのです。この終末論的な世界審判、神の御子が十字架に上げられるという罪に対する徹底的な裁き、それによって成就した罪の赦し、すなわち言語を絶する神の恵みの選びが語られた後、私たちはノアが残されたのは、「神に従う無垢な人で……神と共に歩んだ」という、もう一人の聖書記者の言葉を聞くのです。いったい、祭司記者はこの言葉で何を描いたのでしょうか。
 因みに、「ノアは神に従う無垢な人であった」という、「無垢(正しい)」とは、道徳的な意味での「完全さ」ではありません。それはもともと宗教用語で、ある人間ないし犠牲が祭儀的に正常であり、神によって受け入れられる状態にあることを意味します。
 実は、この人は創世記1章で、人間は「神の像」に創られたと語っています。そして、創世記5章のアダムの系図では、その「神の像」は堕落後も引き継がれていると語ったのです。「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ……た。……アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男のこうけた!」と。
 神学者の中には、特にプロテスタント陣営の神学者の中には、神の像は堕落と共に消失したと語る者がいます。その論理には説得力があり、思想的には統一性があるように思います。しかし私たちが聞くのは、人間の知性が極めた思想の統一性ではなく、人間の苦しみの炉で練りきよめられた神の言葉、聖書です。聖書は、堕罪後も、神の像は残ると語っているのです。
 聖公会の司祭であり、立教大学の教授であった中沢洽樹は、創世記「1章におけるPの意図は、……創造者たる真の神に対する被造物としての世界のあり方の告知ではないかと思う。そのあり方とは何であるかと言えば、神の祝福に答えて創造者を讃美することである。『神の像』としての人間の創造の目的もここにあ(る)」と解説しています。
 これとの関連で思い起こした言葉があります。それはアウグスチヌスが『告白』の冒頭で語った言葉です。「人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとしています。それは、おのが死の性を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが『たかぶる者をしりぞけたもう』ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です」と。
 この言葉から分かるようにアウグスチヌスも、堕罪後の被造物も一つの分として神を讃えようとしている、その賛美に、人間に与えられた神の像を見ているのです。

 祭司記者は、いっさいを失った状況で天幕における礼拝とその共同体に希望を見たのです。それが祭司記者の信仰であり、神学なのです。祭司記者は〈破れ〉の現実の中での神の現在の問題を徹底的に考え抜き、神の栄光の現臨は、基本的には礼拝において起こる出来事であると見たのです。
 その意味で、「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」は今を生きる私たちにとって、特別の意味を持つのです。私たちが生きている時代もまた滅びの中にある世界だからです。この滅び行く世界の中にあって私たちは、ただ神の恵み_十字架のキリスト_によって残されたのです。十字架にあげられた神、この筆舌に尽くしがたい神の恵みへの応答として、人間は、小さいながらも神の被造物の一つの分として、神を讃えようとするのです。
 然り、賛美する存在、神の像としての人間は、十字架に上げられた神、イエス・キリストの奉献によって、ただ恵みによって、滅びゆくこの世を残りの者として生きることがゆるされるのです。そして、ただ神の恵みによって残された者は、「神に従う無垢な人で……神と共に歩む」のです。
 この残りの者が神と共に歩む歩みを誰の目にも最も印象的に描いたのが、主イエスが罪人たちと行った会食です。そこでは罪人たちが救いの共同体に迎え入れられるのです。教会は聖餐共同体である時、残りの者の共同体、現代の箱舟なのです。

(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。
 全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
 主よ、わたしは知っています。あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
 主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、ノアのように、この時代にあって、神に従う無垢な人として、神と共に歩ませて下さい。

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