プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「いと高きところには栄光、神にあれ、
  地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)。

 羊飼いたちが聞いたメシア誕生の喜びは、「民全体に与えられる大きな喜び」と言われる。この喜びを黙想していたとき、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な場所(地に平和!)に置こう」と歌う、詩篇12篇の詩人の言葉が思い起こされた。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」はこの救いを成就するのである。それを端的に描いたのが、「主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たび清めた銀のようである」である。詩人は、神の言葉は天の炉で練り清められた清き言葉とは言わない。地の炉で、すなわち人間の苦しみによって清められる言葉であると言う。これに「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」たと語るヘブライ書の言葉が呼応する。「ただ、十字架について語ること。神が苦しんだのだ」(シモーヌ・ヴェイユ)。十字架のキリストこそ、苦しみに満ちた大地の希望なのである。

 天の軍勢は、この大地の希望_十字架のキリスト_が、「御心に適う人にあれ」と歌う。原文の表現はさまざまに解釈されてきた。カトリック教会の公用ラテン語訳聖書では、心を尽くして神の喜びを満たそうと努める「善い意志の人々」がそれであるとしている。主イエスが生きた時代でいえば、ファリサイ派や、彼らを母胎とし、さらに徹底的に実践したエッセネ派が該当する。彼らは聖なる神の祭司として、そこに残りの者の思想を実現しようとしたのである。
 しかしこの訳は、メシア誕生の報せが羊飼いたち(!)に与えられたことと矛盾する。羊飼いは軽蔑された存在であり、卑しい職業であるとは、無知、無教養の輩で、宗教的知識に欠け、道徳的にもいかがわしいということである。その人々に向かって天の軍勢は、「地には平和、御心に適う人にあれ」と言ったのである。
 そもそも主イエスは、残りの者の共同体を人間の努力や他の人々からの隔絶によってはかろうとするすべての試みを拒んだのである。主イエスは、ファリサイ派やエッセネ派の残りの者共同体から外れて行った人々に呼びかけたのである。それはとりもなおさずファリサイ派、エッセネ派に対する宣戦布告であった。

 実は、古代文献の中には、神の恵みに対して制限や条件のように思われる「御心に適う人に」を省いているものがある。神の恵みを制限しかねない「御心に適う人にあれ」というこの一句によって、天の軍勢は何を伝えたのか。
 主イエスの活動直前、残りの者の思想は二つの点で預言者の教説に戻ったことに特徴がある、と言った人がいる。預言者が語った残りの者に関する二つの教説とは、神の審きが真剣に取り上げられるとともに、「柔和でへりくだった民(=貧しい者)」が呼び集められたということである。ゼファニヤは言う。「わたしはお前の中に、苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする」(3:12)。
 羊飼いのクリスマスは、ゼファニヤが語ったこの預言が今、成就したと告げる。だからこそ天の軍勢は羊飼いを前にして、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美したのである。
 主イエスとファリサイ派、エッセネ派はもとより、洗礼者ヨハネからさえ隔てたもの、それは恵みには限りがなく、そこには一切条件がついていないという使信なのである。ここに「御心に適う人に」という言葉が語られる意図がある。この極みなき恵みは、神の審きが真剣に取り上げられるところで体験される。
 私たちは、この「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉を、主の晩餐にあずかる前に聞く。「ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主のからだと血を犯し、自分にさばきを招く」と。
 私たちも「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を見て、この乳飲み子が十字架に上げられる神の審きを真剣に取り上げ、み子を与え尽くす神の極みなき恵みを知りたいと思う。知って私たちも、羊飼いたちのよう、私たちの日常を、「神をあがめ、賛美しながら」生きる者になりたいと思う。

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