プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2:29−30)。

 ルカは、シメオンもまた、ヨブ、そしてアブラハムの系列にいた人であると紹介している。「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と。因みに、シメオンが聖霊の働きのもとにあったという記述は、彼が預言者であることを示している。その点でシメオンは、この後に出てくる女預言者ハンナ(36以下)と同列に立っている。預言者であるとは、彼の言葉と行為は特別な意味をもつということである。しかもこの人は、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」のである。
 その人が、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とのユダヤの掟に従って犠牲をささげるために、ヨセフとマリアがイエスを神殿に連れて来たのに出くわしたのである。そして「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて」こう言ったのである。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから!」
 なんという至福か。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます」とは! シメオンは「なにも楽しいことがない」と言って、死にたいと老いの繰り言を言っているのではない。シメオンはヨブのように、アブラハムのように、自分の目で神の「救を見た」のである。

 それにしても一体、シメオンはその腕に抱いた幼子イエスに何を見たので、これ以上ない至福を口にしたのだろうか。それを知る手懸りは、シメオンが母マリアに語った「祝福の言葉」にある。
 もう死んでもいい、わたしはこの目で神の救いを見たのだから。このように語る老人の言葉に驚いたヨセフとマリアを、シメオンは祝福してこう言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 シメオンはその腕に抱いた幼子に十字架のしるしを見たのである。なぜ、それが祝福なのか。母マリアはこの子のゆえに、「剣で心を刺し貫かれる」とさえ言われているのである。それでも祝福なのか。
 わたしはシメオンのこの「祝福の言葉」を聞きつつ、ドストエフスキーが『罪と罰』の中で描いた、娼婦ソーニャが殺人者ラスコーリニコフにラザロの復活物語を読む場面を思い起した。ドストエフスキーはその場面をこう始める。
 「『何のためにあなたに読んで上げるんですの? だってあなたは信じてらっしゃらないぢゃありませんか・・・』と彼女は静かに、変に息を切らせながら囁いた。『読んでくれ! 僕はそうして貰いたいんだ!』と、彼は言い張った。・・・」
 ソーニャがラスコーリニコフに「ラザロの復活」を読む場面はこうして始まる。そしてドストエフスキーは、この場面を次のように結ぶ。「歪んだ燭台に立っていた蠟燭の燃えさしは、この貧しい一室に奇しくも落ち合って、永遠の書物を共に読んだ殺人者と淫売婦とをぼんやりと照らしながら、もう大分前から消えかかっていた。」
 小説はこの後、人殺しの告白へと移って行く。私は、この場面は、聖書を「永遠の書物」として読む正しい姿勢を伝えているように思う。ドストエフスキーは、「自分というものをすべて、洗いざらいさらけ出してしまう」とも記している。
 シメオンがその腕に御子イエス・キリストを抱いた時にした経験はこれではないのか。十字架のイエスの光に照らされて、「自分というものをすべて、洗いざらいさらけ出してしまう」という経験である。ここに、幼子イエスを腕に抱き、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから」と歓喜の声を上げたシメオンの至福があるのではないか。言い換えると、ここではシメオンの「正しさ」など何の意味も果たさないのである。

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