プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記8:13-22、マルコ13:14-27、ロマ3:21-26
讃美歌 514

 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21−22)

Ⅰ.始発から終着へ
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、ノアの洪水物語の結びです。学者たちは、ノアの洪水物語は二つの資料から成っていると言います。イスラエルが歴史上最も栄えたダビデ・ソロモン王の時代にまとめられたヤーウィスト資料(J)と、イスラエル民族最大の危機、バビロン捕囚の時代にまとめられた祭司資料(P)です。この二つの資料は実に巧みに噛み合わされていますが、現にある洪水物語を正しく理解するためには、二つの資料のそれぞれの特色を認識する必要があります。きょうはより古い伝承、J資料を中心にノアの洪水物語を味わい、次週、P資料の洪水物語を見たいと思います。

 ところで編集者は、現にある洪水物語の導入(6:5−8)と結び(8:20−22)にJ資料を置いています。しかもそのいずれもが神の決断を伝えているのです。しかもその決断は、洪水の前と後で正反対なのです。
 洪水前、神は「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって」地上から全ての生物を拭い去ると決意されたのです。そうであるのに洪水後、神はこう誓われたのです。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪い。」J資料は、洪水後も、「人間が心に思うことは、幼いときから悪い」として、洪水後も人間は、世界は、何も変わっていないとしたのです。
 この結論は、他の文化圏に伝わる洪水物語と際立った違いを示しています。宗教学者M.エリアーデは、洪水神話は、ほとんど世界中に広がっていて、宇宙のリズムの一部を形成していると言い、他の文化圏における洪水物語では、洪水の主因は人間の罪であると同時に世界の老朽化であるといいます。つまり宇宙は存在するという単なる事実によって、しだいに退化し、ついには滅亡するのであると。それゆえ宇宙は再創造されなければならない。洪水がその再創造の契機となる。ゆえに洪水は、新しい創造を可能にするために、新年祭で象徴的に行われました。新年祭で、「世界の終末」と罪に汚れた人間の終末を宇宙的規模で実現するのです。
 こうして聖書以前の多くの洪水物語では、堕落した人間の住む「旧世界」は原水のなかに没し、しばらくして、「新世界」が「混沌」の水から出現するのです。洪水が古き世を新しく生まれ変わらせるのです。宗教学者はそれを「永遠回帰の神話」と呼びます。

 しかしJ資料の洪水物語は、洪水の後で、世界は、人間は、新しくなっていないと語るのです。J資料がここで語る洪水物語は、いわゆる「永遠回帰の神話」ではないとしたのです。J資料は、ほとんど世界中に広がっている洪水物語を素材として用いながら、それらの結論、永遠回帰の神話とは全く異なる現実を描き出したのです。
 そのことを思い巡らしていたとき、私が神学生のとき訓練を受けた滝野川教会の牧師、大木英夫先生が語られた譬えを思い起こしました。先生は、永遠回帰の神話と聖書の救済史を、山手線と中央線に譬えました。山手線は同じところを回り続ける、いわゆる永遠回帰の神話を象徴するのに対して、聖書は、その山手線を突っ切って、始発から終点に向かって突き進む中央線のようであると。
 洪水の前と後で、罪に汚れた人間は何も変わっていないのです。罪に汚れたままの人間が、ノアの洪水を始発として終点に向かって突き進むのです。罪に汚れた人間の終点に何があるのでしょうか。御言に聞きたいと思います。

Ⅱ. 救済の恵み
 そこでまず注目したいのは7章1−5節です(J資料)。ここには、箱舟に入るように指示されたノアが初めて神から、「すべての生き物を地の面から拭い去る」と明かされ、それに対して「ノアは、すべて主が命じられた通りにした」とあります。この段落で特に注目したいのは1節後半、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」とあるノアに対する神の評価です。
 このノアに対する神の評価は、プロローグの「ノアは主の好意(恵み)を得た」(6:8)と明らかに矛盾しています。ノアが神の好意(恵み)を得たとは、ノアは洪水で滅ぼされる者たちと何も変わらないということです。そうであるのに、ノアは「この世代の中で……わたしに従う人だと、わたしは認めている」と言われるのです。
 ある研究者は、こうした矛盾する表現は、「ほとんど子供じみた天真爛漫さと神学的な深遠さを兼ね備えた、ヤハウィストの驚くべき文の一つ」であると言います。ほとんど子供じみた天真爛漫さで、「ノアは主の好意(恵み)を得た」と語ったすぐその後で、それとは正反対のノアは「この世代の中で……わたしに従う(正しい)人」と語るヤハウィストの驚くべき文には、どれほどの神学的深遠さが表現されているのでしょうか。

 そのことを黙想していた時、黒田平治が『キリストの足音』という遺稿集に記した言葉が思い起こされました。この方は、敗戦後数年して東大の理学部数学科副手として採用されながら、その一年後、喉頭結核のために入院、闘病、そして召された「無名の一数学者」です。この人の遺稿集の中にこんな言葉があります。
 「わたしたちは罪を是認すべきではない。罪と戦わねばならぬ。そして勝たねばならぬ。だが人は罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す。
 ゆえにわたしたちは罪を犯さないことによって罪に勝つことは不可能である。すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう。そして勝利をいただこう。これ以外に罪に勝つ方法はないからである。」

 なぜ黒田さんはこのように語れたのでしょうか。私は、それを知る手がかりは、パウロがロマ書3章21節以下で語った言葉にあると考えています。パウロはそこで、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」と語ったのです。
 キリストの十字架による贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのだから、黒田さんは、「犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう」と言えたのではないでしょうか。黒田さんは山手線(=罪を犯してはならぬのにしばしばこれを犯す)から中央線(=罪に汚れたままで終点、キリストの十字架にすべてを委ねる)に乗り換えたのです。
 キリストの十字架による罪の贖い、ヤーウィストの言葉で言えば無価値なものを選ぶ「神の恵み」に全てを委ねて安んじる、それがヤーウィストがここで描いた、ノアは「神に従う人」の意味ではないのか。より厳密に言えば、受胎告知を受けたマリアが「お言葉通り、この身になりますように」と言って全てを神に委ねたように、神の恵みへの応答もまた神の恵みなのです。神に従うという恵みへの応答で、私たちに誇るべきものなど何もないのです。語り手は、ノアが神に従う様を次のように描きます。「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした!」

 この後、ノアたちが乗った箱舟は、降り注ぐ雨の中、原初の混沌、「闇が深淵の面にあり、強風が間断なく吹き荒れる水面」(創世記1:2)を漂い、不安な日々を過ごします。どれほどの時が経過したでしょうか。降り続いた雨は止み、水が引き始めたのです。箱舟に閉じ込められ、嵐に翻弄されたノアたちの不安と期待を、J資料はある一つの象徴的な行為で実に生き生きと描きます。それは8章8−12節の鳩の派遣です。
 最初の派遣は無駄に終わりました。鳩は翼を休めるところがなく、ノアのもとに戻って来たのです。しかし語り手はこの鳩の帰還を、大きな愛を込めて描きます。「ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した」と。語り手は、ノアの一挙一動に目を凝らすのです。
 二度目の派遣も結果は同じでした、鳩は戻ってきたのです。失望?! その時です。「見よ!」鳩は嘴にオリーブの葉をくわえていたのです_以後、オリーブの葉をくわえた鳩は、絶望の中の希望と平和の象徴となりました。鳩は箱舟に閉じ込められた者たちに、神の怒りの審判の終わりと、近づきつつある解放の予兆を運んできたのです。
 さらに七日待って、ノアは三たび鳩を放ちます。鳩はもうノアのもとには帰って来きませんでした。空を舞う鳥が翼を休ませる樹々が育ったのです。ノアはそれを、大地が再び住めるようになったしるしとして受け取ったのです。

Ⅲ. 神の驚くべき救いの意志
 ノアが箱舟を出てまずしたことは20節、他の何にも優先して焼き尽くす献げ物を捧げることでした。解放された大地の上で行われた人間の最初の行為は、主なる神に祭壇を築くことでした。しかも後に続く節から分かるように、この犠牲には非常な重みが与えられています。この犠牲はその性格から見て、贖罪_罪の贖いの犠牲なのです。
 ノアが捧げた「宥めの香り」を嗅いだ神はこう言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。」
 カルヴァンは、ここで意味されているのは、「本当なら」神は毎日洪水を起こして人間を罰しなければならないだろう、ということであると言いました。その強烈な逆説において21節、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪い」が語られたのです。この言葉は、旧約聖書中で最も注目すべき神学的言明の一つであると言われます。この箇所は、ヤハウィストが決定的な箇所において、どれほど明瞭な輪郭をもって周到に、彼の語らんとすることを表現できたかを典型的な形で示している、といった人がいます。「その限りにおいて、このヤハウェの言葉は、ヤハウィストの原初史全体における大きな節目をなしている」のです。

 洪水後も、人間が心に思うことは幼い時から悪い! しかし神はこの人間のゆえに大地を呪うことは二度としないと、二度繰り返し語られたのです。ここにノア以後の全人類に向けられた神の救済意志が驚嘆に値するほど直接的に明言されているのです。
 ヤハウィストにとって洪水は、地上に罪が蔓延するのを防ぐために神が起こす、最後から二番目の審判なのです。洪水物語を始発として、ヤーウィストは終点に向かって突き進むのです。すでに見たように、その終点にはキリストの十字架が立っているのです!
 十字架のキリストこそ、ノアの洪水、「最後から二番目の大きな審判」を始発として突き進む終点なのです。結びに、最後の審判について語られた主イエスの言葉に聞きたいと思います。マルコ福音書13章14節以下に、主イエスが語られた「最後の審判」についての教えが伝えられています。
 主イエスは言われます。「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの(ノアの洪水をはるかに超えた)苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである!」
 私たちはここで実に厳しい言葉を聞きます。神がその期間を縮めてくださらなければ、最後の審判で救われる者は一人もいないと。ノアの洪水では、ノアとその家族が救われました。しかし最後の審判で救われる者は一人もいないというのです。
 「しかし」、と主は言われます。「しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである!」ちなみに、この恵みの言葉は、過去形で語られています。なぜマルコは、最後の審判の期間は「縮められた」と過去形で語ったのでしょうか。マルコの神学、信仰によれば、最後の審判である「その日」はすでに起こったのです。マルコは「その日」を旧約の預言句を引用して、次のように描いています。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる!」
 世界はこの終末論的な天変地異の異象を、主イエスが十字架に上げられた日に見たのです。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた!」(マルコ15:33)。
 然り、十字架のキリストこそ、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪い」という、ノアの洪水を始発として突き進んだ終着点なのです。洪水の前と後で、罪に汚れた人間は変わっていないのです。変わらないまま人間は、ノアの大洪水を始発として終点に向かって突き進むのです。その終着点で人は、十字架のキリストを見るのです。キリストは十字架に上げられ、呪われることで、私たちの為に「最後の審判」を受けてくださったのです!

 十字架のキリスト、この終着点において、ノアの洪水では何も変わらなかった古い世が、全く新しい世界として再創造されたのです。パウロはそれを次のように語りました。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなった!」

 ヤーウィスト(J資料)は、この新しい存在を次のように描きました。「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない!」
 この洪水物語を締め括る神の慰めの言葉は、多くの点で、古代イスラエルの時間表象の特徴を表していると言った人がいます。どういうことかと言えば、古代イスラエルの時間思考は、祝祭の意味について語ることによって初めて十分に理解できるようになるからです。聖書の民にとって祝祭は生活の最高頂であっただけでなく、祝祭を通して、日常の生活そのものが時間的なリズムを獲得したのです。さらに言えば、祭儀的祝祭を言葉の十全な意味で、唯一の時とみなすことができるのです。なぜならこれだけが、言葉の最高の意味で、「充たされた時」だからです。アウグスチヌが「告白」したように、わたしたちは、神のうちに憩うまで「安らぎを得ることはできないのです」。黒田さんの言う、「すでに犯した罪が心を責めても、いつまでも責め続けないように神に心をおゆだねして安んじていよう」とは、祭儀的祝祭、礼拝の場に身を置くことで得られる平安なのです。

 箱舟から出たノアは、他の何にも優先してまず主のために祭壇を築いたのです。解放され人間が返還された大地の上で行った最初の行為は、主なる神のために祭壇を築くことだったのです。その意味で、この犠牲は非常に重い意味を持つのです。わたしたちはノアが築いた祭壇を始発とするその終点で、神が人間のために築いた祭壇、十字架のキリストを見るのです。
 滅びゆくこの世の時の中にあって、礼拝は、唯一無比の「充たされた時」なのです。この充たされた時を誰の目にも最も印象的な仕方で表現しているのが、主の晩餐です。私たちは主の食卓で、私の罪を贖うために犠牲となったキリストの肉を食べ、その血を飲むのです!
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなった!」

(祈り)
「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」
「愛する主よ、教えて下さい。全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。
 主よ、わたしは知っています。あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」
 主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、この礼拝の時を私の「充たされた時」として下さい。

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