プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「アンナといいう女預言者がいた。非常に年をとっていて、……84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた……。」(ルカ2:36−37)。

 ルカはシメオンを、「この人は正しい人で信仰があつく」と紹介する。しかし、主イエスの前にシメオンの「正しさ」、信仰の篤さなど、何の意味も持たない。洗礼者ヨハネの両親がそうであった。ルカはザカリアとエリサベトをこう描く。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」そのザカリアが、目の前に現れた御使いの言葉を信じることができず、口が利けなくなるのである。
 さらに言えば、ヨブがそうであった。ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きて」いたと紹介されている。そのヨブの信仰をご利益信仰と断じたサタンの挑戦を神が受けたことで、ヨブは財産の全てを失い、10人の子供たちを失い、健康まで失う。ヨブの不幸を聞きつけて、慰めに来た友人たちは、ヨブのあまりに変わり果てた姿に一言も言葉をかけることができなかったとある。この状況を背景にして、ヨブと三人の友人たちの間で激しい論争が繰り広げられるのである。友人たちは、結果から原因、つまりヨブに下された禍からヨブに罪ありと攻め立てる。ヨブは原因から結果、つまりこの罰を不当であると神に訴えたのである。ヨブと友人たちは、方向は違うが同じ応報思想(ご利益信仰)に立っている。だから最後まで噛み合わない。
 議論が出尽くした時、神が嵐の中からヨブに語りかける。その神とヨブとの対話は、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」というヨブの告白で閉じられる。ヨブは「無垢な正しい人」であるこは、生ける神の前に無価値であることを知ったのである。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから!」このシメオンの神賛美は、ヨブの罪の告白と同じように響く。シメオンは幼子イエスをその腕に抱いて、「自分というものをすべて、洗いざらいさらけ出し」たのである。自分が今、その腕に抱く御子イエス・キリストを知る絶大な価値に比べれば、自分の「正しさ」、「非のうちどころがない」ことなど、憤土のようであることを知ったのである。
 わたしたちもシメオンのように、主の晩餐によって、この手の中にキリストの御聖体を抱くのである。この経験の積み重ねの中に、つまり「自分というものをすべて、洗いざらいさらけ出してしまう」積み重ねの中に、老いの恵み、「とくに優れて宗教的な年齢」がある。ルカがここに登場させた女預言者アンナに私たちが見るのはそれである。
 これとの関連で、思い起こした伝説がある。暗黒の中世に燦然と輝く光として今も多くの信仰者を惹きつけてやまない、アッシジの聖フランシスである。彼には主イエスと同じ十字架のみ傷の痕ができたという伝説が伝わっている。「聖痕」といわれるものである。わたしたちにとってこの話が興味深いのは、フランシスの体に十字架のキリストのみ傷ができたのは、回心のはじめの時ではなく、彼の晩年であったということである。そこには若き日の回心から生涯の終わりまで、主のみ傷の痕ができるほどに年月をかけて、自分の歩みをキリストの歩みに重ね、キリストの経験を深めていった生涯があったのである。

 教会は今、シメオンたちを求めている。否、教会だけではない。「悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』」という高齢化が加速しているわたしたちの社会がシメオンのような、「優れて宗教的な」老いを生きる人を求めているのである。その体にキリストの御聖体を受け、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見た」と神を賛美するシメオンたちを、時代が必要としているのである。
 パウロは言う。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」救い主イエス・キリストの栄光の現れをシメオンは幼子イエスに見たのである。

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