プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(マタイ2:2−3)。

 「ユダヤ人の王」イエスの誕生の知らせに不安を覚えるヘロデ。マタイがここで描いたのは、政治と宗教の相異である。これとの関連で紹介したい言葉がある。キルケゴールが『単独者』の「まえがき」で語った言葉である。
 「現代においてはすべてが政治である。宗教的なものの物の見方は、これとは天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。と言うのは、政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとするからである。」
 わたしたちが生きている現代は、すべてが経済である。「経済が、経済的利益が、したがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、そのため経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている」(ゾンバルト)。
 キルケゴールのいう政治を経済に置き換えても意味は同じである。「地にとどまるために地で始める」のである。しかし「宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとする」のである。
 
 マタイが東方の博士の物語で描いたのは、この「宗教的なものの物の見方」ではないのか。言い換えると、主イエスは、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げるお方であるということである。そのことを端的に描いているのが、東方の博士たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」云々と言った言葉である。
 預言者は、世界が完成する時、異邦人たちが世界中から集まって来ると語った。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向」(イザヤ2:2)かうと。東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来たのは、この「終わりの日」に起こる異邦人たちのエルサレム巡礼の先取りなのである。
 ヨハネ福音書によれば、この「終わりの日」はイエスが十字架にあげられる日である。ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたイエスに、ギリシア人たちが会いたがっていると聞いたイエスは、こう言われたのである。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(12:32)。ヨハネはこの主イエスの言葉に次のような解説を付している。「イエスは、御自分がどのような死に方を遂げられるかを示そう」(12:33)としたと。
 マタイが記す主イエスの誕生物語に十字架の影が色濃く射しているのはこのゆえである。これより後、異邦人は神の民に属するものとなるのである。イザヤは、この時の到来をまことに象徴的に描いた。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。……主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。……この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう!」(25:6−9)。わたしたちが東方の博士たちから聞いた喜びは、まさにこの喜びなのである。

 異邦人の時が歴史の終りに到来するというこの表象には、深い意味がある。それは主イエスの持っていた救済史観にその根拠がある。どういうことかと言えば、異邦人の時が来る前に、まず第一に神の約束が充たされ、イスラエルに救いが提示され、神の僕が多くの人のためにその血を流さなければならないのである。つまり異邦人の時はメシアの受難のかなたに横たわっているのである。
 マタイが幼子イエスに、メシアの受難を見ていたことは、博士たちの言葉、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」に端的に描かれている。マタイ福音書において「ユダヤ人の王」というこの称号は、総督ピラトの前での審問(「あなたはユダヤ人の王であるか」27:11)と、十字架刑に処せられたときの罪状書「ユダヤ人の王イエス」(27:37)だけに用いられるのである。
 マタイもルカ同様(2:34−35)、いま生まれたばかりの幼子に、十字架を見ている。このユダヤ人の王は、十字架の死によって「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして」くださるのである。

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