プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「彼らが王の言葉を聞いて出かける、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(マタイ2:9−10)。

 マタイが東方の博士たちのエルサレム巡礼で描いたのは、死が永久に滅ぼされた「救いを祝って喜び躍」ることである。マタイはこう証言する。「彼らが……出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた!」と。
 この「喜びにあふれた」という訳は十分とは言えない。文字通りに訳すと、「彼らはこの上もなく大きな喜びをもって喜んだ」である。この喜びは「復活物語などに同じような筆致がある(マタイ28:8、ルカ24:41、52、ヨハネ20:20)」と言った人がいる。つまりこの時の博士たちの喜びは、復活節のよろこび!と同じであると。復活節の喜びとは、「苦痛のあとにくるよろこびではない。束縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出会いではない。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦痛を完成するもの」(シモーヌ・ヴェイユ)である。
 『新約聖書釈義辞典』によると、喜びは、新約本文の大部分において人間が終末時の救いの出来事を先取りする際の、第一の方法とある。「喜びは、終末論的な救いの産物の受領の主観的な面を表し、従ってまた〈神の国〉と並んで現れる」と。

 これとの関連で注目したいのは、テサロニケの信徒に「いつも喜んでいなさい」と語るパウロの言葉である。パウロはこう語る。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
 それにしてもなぜキリスト者は、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できるのか。それは「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」(Ⅱコリント4:6)を見ているからである。「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」とは十字架のことである。そのとき太陽は光を失い、全地は暗くなった(27:45)とある。その闇の中から、十字架の光は輝き出るのである。
 そしてパウロは言いう。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主の来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」。ここにキルケゴールの言う、政治とは全く次元を異にする、即ち「出発点や最終目標も、天と地ほども相異している」宗教的なものの物の見方がある。「政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げ」るのである。

 世界を見渡せば、わたしたちがそこに見るのは、経済に支配された政治の闇である。それは「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」世界である。イザヤはこの「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と語る。そしてマタイは、東方の博士たちが幼子イエスに見たのはまさにこの光であったと語るのである。

 わたしたちも東方の博士同様、主イエスにこの光を見て、キリスト者として生きる決意のもとに〈洗礼〉を受けたのである。千里眼協会が先行きの不透明さゆえに会合を中断したいま、この闇の世に光を見ることが出来るのは、キリスト者を他においてない。キリスト者は、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」を与えられたのである。然り、神は御子の十字架の死と復活によって、「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださ」ったのである。死が永久に滅ぼされた復活節の喜びを、私たちは主の晩餐で先取りする。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。……見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。……その救いを祝って喜び躍ろう!」(イザヤ25:6−9)。

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