プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記11:1-9、マルコ10:35-45、Ⅰコリント2:1-10
讃美歌 537

 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあることの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:3−7)

Ⅰ. 成長戦略の闇
 きょう私たちは、小岩教会献堂67周年の記念礼拝を捧げています。この日、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記11章1節以下、いわゆるバベルの塔の物語です。
 人間は古来より今日に至るまで、巨大な都市と高い塔を建ててきました。巨大な都市と高い塔を建てる動機は、一方では人間の全エネルギーの統合であり、他方では名声の獲得、偉大な者になりたいという素朴な欲求です。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」とある通りです。
 天に届く塔のある町を建てるというこの巨大な文化事業に際して、原文では3節と4節に_(新共同訳は4節のみ)_二度繰り返し、「さあ」何々しようとの呼びかけがなされます。「さあ、れんがを作り、それをよく焼こう」、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と。
 この「さあ」には、若い民族特有の情熱と生き生きとした楽天主義が表現されていると言われます。語り手は、その情熱と楽天主義を冷静な目で見つめるのです。建築素材であるレンガは、石に比べるとはるかに脆いのです。つまり語り手は、「石の代わりにれんが」を用いるという表現によって、人間が企てる巨大事業が実に脆いものであることを見ているのです。

 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」この人間の企てをご覧になった神は、天より「降って来られた!」とみ言葉は記します。神は、この企てによって人間が歩み始めた道の行き着く先を見通しておられるのです。このとき人間は、まだ自分たちの結びつきのことしか考えていませんでした。「全地に散らされることのないようにしよう」と。しかし神はこのとき、人間にはあらゆるものへの、如何なる限度をも越えた可能性が開かれているのを見て取られたのです。御言はそれを次のように語ります。「彼らはすでにこのことをしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう」(6口語訳)。
 善悪を知る者となり、神のようになった人間の進歩の速さに神が戸惑っているのです。「彼らはすでにこのことをしはじめた!」神は、人間がつくり始めたものをご覧になり、狼狽しているのです! 結果、神は、「(さあ、)我々は降って行って」と言われたのです。ここには人間の「さあ」に対する、神の「さあ」が語られるのです。神が全勢力をあげて、人類の統一性を打ち砕くというのです! それはここで起こっていることがいかに深刻であるかを物語っています。まだ新しい破局は何も起きていません。しかし神は、自らの力に目覚めた人間の、如何なる限度をも越える可能性を前にして、最悪の事態を避けるべく、互いに意思の疎通をはかれないように言葉を乱されたのです。

 このバベルの塔物語には人類の文化史の一断面が描かれている、と言った人がいます。この物語を伝えているのはイスラエル史上、最も繁栄したダビデ・ソロモン王の時代を生きた人です。この人の目に、文明の進歩はどのように写っていたのでしょうか。それは明らかに懐疑的です。この人は、人間が企てる文化的な巨大事業に神への攻撃を見たのです。文明の進歩、文化へのゆるやかな立ち上がりに対応して、人間と神との疎外化はますます深まり、ついには破局に導いていかざるを得ないとしたのです。
 そのことを思いめぐらしていた時、私たちの国が明治維新以来、西欧列国に追いつけ追い越せと走っていたとき、朝日新聞に連載された夏目漱石の『行人』の一文が思い起こされました。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい。」
 漱石は「人間の不安は科学の発展から来る」と言い、科学の発展を「実に恐ろしい」と言ったのです。漱石がこう言ってから百年、私たちは福島の原発事故でその「恐ろしさ」を体感したのです。それでも為政者たちはまだ進歩・成長を掲げています。バベルの塔物語はまだ終わっていないのです。バベルの塔物語は、私たち現代人の物語でもあるのです。ここには世界と人類がおかれている根本的な状況が描かれているのです。

Ⅱ. 第三の波
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」
 神を狼狽させるバベルの塔物語を思い巡らしていたとき、アルビン・トフラーが1990年に著した『パワーシフト』が思い起こされました。トフラーは、私たちは今、新しい「力の移行」の時を生きていると言い、その「力」を三つの要素に分類します。「暴力と富と知識」です。そして今や、産業社会を支えてきた富の力は、知識に移りつつあると言うのです。
 トフラーはこの本を著す10年前、『第三の波』を書いています。その本でトフラーは、人類の歴史を押し寄せる波になぞらえ、三つの時期に区分しました。第一の波は農業段階、第二の波は産業段階、そして第三の波は、今起こりつつある段階です。トフラーは、今起こりつつある第三の波の変化を次のように語りました。「新しい文明が我々の生活の中に生まれつつある。それは一万年前の農業の発明と共に起こった第一の波と同じほど重大な、産業革命と共に始まった地を揺るがすような第二の波と同じほど深い意味を持つ、事件である。……これまでの世界を支えてきた権力構造のすべてが崩れ……これまでとはまったく様相の異なる権力構造が形成されつつある」と。しかも、その「進歩の潮流はあまりにも速く、変化の波はありに高い。力でもスケールでもスピードでも、今度の変化は歴史上比べるものがない」と。

 トフラーのこの見方が興味深いのは、大方において聖書の原初史と重なるからです。順を追って見ると、まずアダムです。アダムは「土を耕す人」でした。つまり彼の力は、最も原初的な力、筋力(マッスルパワー)です。このアダムの後に来るのがカインの末裔レメクです。レメクの力は富、すなわち金力(マネーパワー)です。レメクは二人の妻を養い、その子供の中には直接労働に携わらない楽師がいたのです。富の蓄積が始まったのです。
 そして最後がバベルの塔の物語です。ここでは天に届く塔の建設が語られます。その力は知識です。知識の結集がなければ、どれほどの腕力(マッスルパワー)、金力(マネーパワー)があろうとも、天に届く塔を建てることはできないのです。
 このように聖書の原初史はパワーシフト(力の移行)として描かれてゆくのです。もっとも、聖書とトフラーとの間には、決定的な違いがあります。トフラーは、知識が力を持つ世界を次のように語ります。「新しい文明は、我々の知的な協力により、世界史の中で初めて、真に人間的な文明になりうるのである」と。しかし聖書は、知識が力もつ世界に深い闇を見ているのです。語り手は、知識を力にまで高めた人間に、得体の知れない不気味さを感じているのです。
 オルテガの言葉が心に迫ります。「われわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかがわからないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさのなかで自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っているのである。」

 知識が力を持つ世界は歴史上もっとも不幸な時代である! 知識が力を持つとはどういうことか。もう一度、御言を辿りたいと思います。
 まず、アダムからレメクへの力の移行です。ここでは〈力〉は筋力(マッスルパワー)から金力(マネーパワー)へ移行しました。この力の移行によってある変化が人間に起こったのです。アダムは額に汗して土を耕す人でした。言い換えますと、アダムは物々交換の時代の人です。そこでは欲望と欲望が組み合う必要があります。ところがレメクになると様相は一変します。富の蓄積が事態を変えたのです。カネは元来、必要もしくは欲望を満たす手段ですが、それは同時に欲望の解放者でもあるのです。
 富を手にしたレメクは二人の妻を娶ります。つまりレメクは富を手にしたことで、「人は……妻と結び合い、一体となる」(2:24)という神の創造秩序を踏み越えたのです。カネを手にすることにより人間は、それまで自覚しなかった欲望をいだくようになったのです。以前には考えもせず、考えられもしなかった可能性が突如として姿を現したのです。
 このあと〈力〉は、富から知識に移ります。ここに至って、富によって解放された「欲望」の構造が大きく変わります。欲望は無際限となり、ますます個別化し、そして多様化するのです。
 欲望を無際限に膨らませる知識が力をもつ世界は、トフラーの予測通り、真に人間的な文明になり得るのでしょうか。実は、トフラー自身、ある懸念を口にしています。「第三の波が来ると、急速な工業化は新植民地主義や貧困からの解放を意味するのか、それともかえって永遠の隷属を意味するのかが、怪しくなってくる」と。今、わたしたちが現に見ている世界、それは新植民地主義と貧困が固定化しつつある世界ではないのか。善悪を知る木の実を食べ、神のようになった人間は滅びへと突き進むしかないのか。

Ⅲ. 聖餐共同体の秘儀
 バベルの塔物語は、取って食べるなとの神の禁令を犯した人間の罪が雪崩のように拡大し続けた道の終点です。神はそれぞれの段階で罪の爆発を、より一層厳しくなる審判をもって罰します。しかしその罰と関連して、同時に救いを与える謎のような神の行為が語られるのです。神はアダムとエヴァに衣を与え、裸の恥を覆われたのです。また、だれもカインに危害を加えないように印を与え、大洪水では、ノアは神の好意を得て滅びを免れるのです。そして洪水後、神は、人間が相変わらず堕落しているにもかかわらず、自然の存続が保証された世界の中へ人間を受け入れたのです。こうして、審きと同時に謎のような神の救いの意志が語られるのです。しかし、ただ一箇所においてこの恵みある守護、神が審かれた者と共に歩むことが欠けているのです。バベルの塔の物語は恵みなしに終わるのです。
 神は恵みを使い果たしてしまわれたのか。このあらゆる神学的な問いのうちで最も普遍的な問いに対する答えは、救済史の開始です。つまり、アブラハムの召命と、そこに示されている「地のあらゆる氏族」を祝福するという神の歴史計画です。アブラハムの召命に始まる救済史こそ、恵みなしで終わるバベルの塔物語への答えなのです。

 新約聖書は、なかでもマタイは、福音書の冒頭に記したイエス・キリストの系図で、このアブラハムの召命から始まる救済史、神と共なるイスラエルの歴史の終点はイエス・キリストであると証言したのです。言い換えますと、天に届く塔を建てるという知識を力にまで高めた人間の巨大な企てに対する神の答え__神は恵みを使い果たしてしまわれたのかという、あらゆる神学的な問いの内で最も普遍的な問いに対する答え__は、十字架のキリストであるということです。
 これとの関連で注目したいのは、マルコ福音書10章35節以下です。そこには主イエスに選ばれた12弟子の中で、ペトロとともに特別の位置を占めていたゼベダイの子ヤコブとヨハネ(9:2、14:33)が、神の国で主イエスの右と左に座ることを願い出たときのことが語られています。つまり、ここでのモチーフはバベルの塔物語と同じ名声の獲得であり、偉大な者になりたいという素朴な欲求なのです。
 その願いを聞かれて、主イエスはこう言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
 有名になりたい、偉大な者になりたい、それは善悪の知識の木の実を食べ、神のようになった人間の性です。つまり、私たちは人間をやめない限り、有名になりたい、偉大な者になりたいとの願いから自由になることはできないのです。その性を剥き出しにする弟子たちに対して、主イエスは、「仕える者」「僕」になることを求められたのです。そしてその理由を、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである!」と語られたのです。
 何人も並び立つもののない至高者なるキリストが、神であることに固執せず、僕の形をとり、人間の姿をとり、十字架の死に至るまで低きに降られたのです。この神の自己放棄を目撃して、誰が狼狽せずにいられるでしょうか。神はこの私を救うために独り子イエスを十字架に犠牲とされたのです! 

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである!」 因みに、ここで言う「仕える」とは、いわゆる謙譲の美徳のことではありません。仕えるという語の新約的な意味は、ギリシア語釈義辞典によれば、主イエスの言葉と振る舞いにあるのです。私たちにとって特に重要なのは、釈義辞典によれば、「彼の全活動と彼の死をもっての献身を『仕えること』とする解釈は、その『生活の座』を恐らくパレスチナ教会の聖餐の祝いに持っている」と解説されていることです。つまり、キリスト者は謙譲の美徳によってではなく、主の晩餐の祝いにおいて「仕える者」、地の塩、世の光なのです。

 きょう、私たちは小岩教会献堂67周年の記念礼拝を捧げています。戦前、私たちの教会は小石川で礼拝を守っていました。その群れは、戦後、場所の移動を余儀なくされ、先人たちは敗戦後の混乱の中から立ち上がり、小岩の地で礼拝を再開しました。この間に変わったのは場所だけではありません。戦前はディサイプルス派の教会でしたが、戦後は日本キリスト教団という合同教会になったのです。小岩教会は合同教会になっても旧教派の伝統、その生命線である聖晩餐を毎週守り続けました。教団の教会で毎週聖晩餐を守る教会は稀有です。その意義は究めて大きいと考えます。
 時代はますます知識が力をもつ世界となっています。知識が力をもつ世界、それは新植民地主義と貧困が固定化しつつある世界です。それは、「より多くの手段、より多くの知識、より多くの技術をもちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っている」世界です。
 その世界にあって私たち小岩教会は、聖餐共同体を形成してきたのです。然り、誰もが天に届く塔を建てようと力を誇る世界、欲望が無際限に解放された世界にあって、私たちは聖晩餐を守る群れ__「仕える者」のあり方__を形成してきたのです。
 聖餐共同体、それは「歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っている」世界に対する、神の究め尽くすことのできない恵みです。パウロの言葉で言えば、私たちはここで「隠されていた、神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)を聞くのです。その知恵は「神の深みさえも究め」(2:10)るのです。神の深みを究める者が「仕える者」なのです。

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