プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


最新記事


月別アーカイブ


カテゴリ


 「起きて、子供とその母親を連れてエジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。……それは「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ2:13、15)。

 マタイは、聖家族のエジプト逃避行を、かつてイスラエルの民がエジプトに下り、そこから導き出されたという、神の民が辿った苦難の歴史の追体験として構成している。
 このことを端的に伝えているのが、ヘブライ人の手紙4章14節以下である。ヘブライ人の手紙の著者はイエスを、メルキゼデクに等しい大祭司と言って、こう語る。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです!」そしてこう記すのです。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源」となったと!
 ここに聖家族、御子イエス・キリストのエジプト下りの秘義がある。イエスのエジプト下りは「わたしたちの弱さ」への共感として、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」ことを象徴しているのである。イエスは「すべての人々に対して、永遠の救いの源」となるために、かつて神の民イスラエルが経験した苦難を追体験するためにエジプトに下られた!のである。

 しかし、この巡礼の旅にあるのは、それだけではない。確かに私たちは、自己を砂漠の灼熱地獄に追いやることによって自分を殺す。しかし、それは、新たに生まれ変わるためである。巡礼者は、再生をねがって、死出の旅へ出発するのである。ここに、私たちが日常の場から、非日常である教会、聖なる空間に身を置く意味がある。
 これとの関連で最後に注目したいのは、列王記上19章に伝わる預言者エリヤの伝承である。ここには、異教の神々の預言者約千人を相手に勝利したエリヤの姿(Ⅰ列王18章)はない。ここにいるのは死を願うエリヤである。エリヤは自分の命が絶えるのを願ってこう口走る。「主よ、もう十分です、わたしの命を取ってください!」
 神はこのエリヤをホレブ――そこはかつてモーセがヤハウェと共に生き生きと過ごした聖地――へ向うよう励ますのである。逃亡生活に疲れ果て、横になって眠ってしまったエリヤに御使いが触れ、パン菓子と水の入った瓶をそこに置き、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言う。
 そしてエリヤは起きて食べ、飲んで力づけられ、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着く。神聖空間に身を置いたのである。そこでエリヤはこう訴える。「イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
 エリヤが生きたこの現実は、私たちが今、現に生きている現実と重なる。ウィリアム・ジェームズは言う。「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある」と。わたしたちの間で、「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」のである。

 世俗化によって教会は、人々の生活の中心には位置せず、人びとが生きる生活の場から離れた、いわば世俗都市から隔絶し、孤立した聖域となった。この状況にあって、私たちは日常というオアシスから、世俗化という灼熱の砂漠のまっただ中を、神のいます聖なる空間(教会)へ向かう巡礼の旅をするのである。わたしたちは、押し寄せる世俗化の波の中で、世俗化に抵抗する巡礼者として「大胆に恵みの座に近づ」くのである。
 巡礼者は、聖地にむかって、死に場所を求め、自らを葬るために家を出る――主の晩餐は「死の固めの式」――。しかしそれは、新たに生まれ変わるためである。巡礼者は、再生をねがって、死出の旅へ出発するのである。そして私たちは教会で、エリヤが聞いた驚くべき神の祝福の言葉を聞くのである。「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
 御言は語るのである。あなたは一人ではない。雲のような証人に囲まれて、「大胆に恵みの座に近づ」くのである、と。

コメント

コメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

 | ホーム |