プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


最新記事


月別アーカイブ


カテゴリ


 「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ2:16)。

 マタイが、主イエスの誕生を祝う喜びの中に、ヘロデによる幼児殺害という「慰められることを拒む」(エレミヤ31・15)悲しみの記事を置いたことに、深い神の配剤を覚える。なぜなら、私たちが今、現に生きているこの世界もまた、預言者エレミヤがラマで聞いた、ラケルの慟哭に満ちているからである。
 マタイがここで物語るヘロデの幼児殺害は、「ユダヤ人の王」の誕生という福音をもたらした、東方の博士たちのクリスマス物語の帰結である。マタイは、「ユダヤ人の王」の誕生を、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた(彼らはこの上もなく大きな喜びをもって喜んだ)」(2:10)という言葉で描いた。そして今、その喜びが、慰められることを拒むほどの悲しみに変わった様を描くのである。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから!」

 多くの聖書学者たちは、この記事に、モーセの誕生物語との並行関係を見る。モーセは、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」(出エジプト1:22)という、ファラオの間引き政策の只中に生を受けた。当時、エジプトにおけるイスラエル人の生活は、ヨセフのことを知らない新しい王が即位したことで、一変する。ラメセスの建設事業のために「従事した労働はいずれも過酷を極めた」だけではない。男の子が生まれたら殺せ、という間引き政策によって、人間の自然の情と社会の繁栄のしるしである、希望の芽が摘み取られたのである(出エジプト1:15−22)。
 アウシュヴィッツを生き残った精神科医フランクルは、「絶望との闘い」の章でこんな言葉を残している。「・・・一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」と。
 間引き政策によって未来を奪われた民族も「そのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落」するのではないか。
 そして世界は今、将来に希望を見いだせない、先行きの不透明さの中で喘いでいる。政治家たちはさまざまな政策を打ち出している。しかし、どれ一つとして功を奏するものはない。経済に支配された世界の変革の波はあまりにも高く、その進歩の潮流はあまりにも速い。この激流の中で、ラケルたちの嘆き悲しむ声はかき消されてしまうのか。わたしは、ラケルたちの声に耳を傾けることができるのは、教会を他にしてないと考えている。言い換えれば、私たちの社会の奪われた未来の問題は、政治的次元のものではなく、きわめて宗教的次元のものであるということである。それを象徴的に示しているのが、バビロン捕囚という政治的崩壊の中でエレミヤが聞いた言葉、「あなたの未来(将来)には希望がある」(31:17)という言葉である。エレミヤはこの言葉を、ラマで泣き叫ぶラケルの声の直後に聞く。子供がなく、慰められることを拒むほどの悲しみの中にある人に、「あなたの未来(将来)には希望がある」という言葉が語られたのである。エレミヤのこの希望はいかなる根拠に根ざすのか。

 ヘロデの幼児殺害という、〈奪われし未来〉をテーマにしたこの御言を黙想しつつ、このお方は、一体、どれほどの悲しみをその身に負われるのだろうか、という思いに捉えられた。主イエスの誕生と生は、子どもを殺され、慰められることを拒む悲しみに包まれているのである。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(イザヤ53:4、5)と語った預言者の言葉が心に迫る。一体、このお方は、どれほどの痛みを、どれほどの悲しみをその身に負われて生きるのだろうか。

コメント

コメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

 | ホーム |