プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」(マタイ2:17)。

 福音書記者たちと同世代の、政治家であり著述家であるヨセフスは、『古代史』のなかで、ヘロデの残忍さをまとめている。しかし、マタイがここで伝える子供たちの殺害については何一つ報告していない。「このことは、16節に報告されている彼の悪業の史実性の反証となる」と言った人がいる。つまりこれは史実ではない、と。
 マタイの関心は、イエスの「伝記(史実)」を書くことにあるのではない。イエスの幼児期物語に五回繰り返される、「主が預言者を通して言われていたことが実現する(した)」ことを描くことにある。しかもマタイは、ここだけは「実現(成就)するため」(1:22、2:5、15、23)と表記せず、「実現した」(2:17)と記した。二歳以下の男の子が一人残らず殺されたことは、神のご計画であったと誤解されることのないためである。
 一体、マタイは、この物語で、いかなる神の救いを描き出したのか。エレミヤの預言を巡って次のような解説をした人がいる。「民族の母は彼女の子どもたちの死を嘆き悲しむ。恐らくここにもテキストの言葉の背後には、メシアが現れるのには、つらい苦難の時代が先行せねばならぬという期待がある。このことを人々はマカベア時代以来、ダニエル書以来知っているのである。すでに旧約聖書の比較的古い書物のうちに同じような期待のしるしがある。」
 イスラエル民族の解放者モーセの誕生には、苦難の時代が先行した。「従事した労働はいずれも過酷を極めた」だけではない。男の子が生まれたら殺せ、という間引き政策によって、希望の芽が摘み取られたのである。言い換えれば、マタイは、ヘロデの殺意から逃れてエジプトへ下る聖家族の物語の中に、二歳以下の男の子が皆殺しにされたという記事を組み込むことで、御子がこれからどのような道をたどるかを予め示したのである。御子は、慰められることを拒むほどの悲しみの真只中を歩まれると。その歩みは、十字架への道以外の何ものでもないと。

 マタイは、十字架への道を行くイエスの歩みの先に何を見ていたのだろか。マタイがここに引用したエレミヤの預言は、ラマで泣き叫ぶラケルの嘆きだけではない。その声をかき消すかのように、エレミヤは神がこう言うのを聞いたのである。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報われる・・・。あなたの未来(将来)には希望がある!」そしてエレミヤは、この希望の根拠が神の痛みであることを知らされるのである。「エフライムはわたしのかけがえのない息子、彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる。」
 ここに「彼のゆえに、胸は高鳴り」と訳された言葉がある。文語訳では「我腸かれの為に痛む」と訳されている。この一句から『神の痛みの神学』を著した北森嘉蔵は、この訳について次のように解説する。
 エレミヤは罪人に対する神の愛を示さんとして、その最も厳密なる表現として「痛み」という言葉を使用せざるを得なかったであろう。この言葉からこの激烈さを失わしめる如き仕方においてこの言葉を言い直そうとする時、それはこの言葉の指し示す事実そのものを見失ってしまうことになるであろう。例えば・・・「同情」とか「憐憫」とかいう言葉によってはエレミヤの見た現実は、翻訳されるのではなく、窒息させられるのである。
 北森はまた、こうも言う。「ここで必要とされるものはもはや語学的穿鑿の感覚ではなく、恩寵への感覚である」。因にルターはここを次のように訳している。「我はいと激しき痛みをいだく!」
 私たちプロテスタント教会はこの「恩寵への感覚」から始まったのである。その教会が今、恩寵への感覚を失い、カルバリーのキリストを同情的イエスに取って代えてしまった。わたしたちは「恩寵への感覚」を取り戻せるか。モルトマンがそれに答えている。「『十字架につけられた神』は、『キリスト者の神』と混同されえないものである。なぜなら、宗教心理学的および宗教社会学的に分析をしてみれば、『キリスト者の神』は必ずしも常に『十字架につけられた神』ではないし、むしろそうであるのは極めてまれであるからである。」
 「極めてまれ」にならなければ、キリスト教は消滅する。

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