プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記11:27-12:3、ヨハネ12:20-33、フィリピ3:2-11
讃美歌 385
 
 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、
 父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、
 あなたの名を高める、祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

Ⅰ. 死の時代
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は、創世記11章27節以下、12章3節までです。ここにはアブラハムの父テラの系図と、アブラハムの召命が記されています。このアブラハムの召命から、神の救いの計画は新たな段階に入るのです。世界と人類の置かれている根本的な状況を記した《原初史》から、イスラエルと共に歩む神の歴史、《救済史》が始まるのです。
 しかもその冒頭で、神はこの歴史をどこへ導いていこうとしておられるのか、その最終目的地がどこであるかを明示されるのです。それは全世界の祝福です。つまり、ここから始まる神の民イスラエルの歴史は、イスラエルという一民族の救いではなく、すべての民族の救いという視座から理解されなければならないのです(参 イザヤ2:2−4、第二イザヤ)。
 その意味で私は、ここで起こっていることは、私たちが毎週行っている主の晩餐と密接に関連していると考えています。私たちは主の晩餐で、「世界の救い」という神の救いの計画に参与するのです。「全世界の救いとなるこの生け贄、御からだと御血とをあなたに献げます。……父よ、すべての人を心に留めてください。その人びとのために私たちはこの供え物をささげます」と祈るのです。
 私たちが行う主の晩餐の秘儀をより深く理解するために、ここで起こっていることの意味を知りたいと思います。

 先週見ましたように、語り手は、世界と人類の置かれている根本的な状況を記した原初史(2:4b−11章)で、雪崩のように拡大する人間の罪を描きます。そして語り手は、神がそれぞれの段階で人間の罪に対して厳格な処罰を行われたことを記すのです。しかも処罰と並んで、同時に、謎のような神の救いの意志、助け保護する神の働きもまた明らかにされるのです。例えば、アダムとエバは「食べると必ず死ぬ」(2:17)と言われたのに生きることを許されます。それだけではありません。神は彼らに、裸の恥を覆う衣服を着せられたのです(3:21)。弟殺しカインの場合も然り、また洪水物語も然りです。裁きの中に、その背後に、その都度、保護し赦そうとする神の救いの意志が語られたのです。
 しかし、ただ一箇所において恵み深い神の保護が欠けているのです。それがバベルの塔物語です。ここでは、神が人間の言葉を乱し、互いに意思の疎通が測れないようにした裁きで終わるのです。今、私たちが現に生きている世界がここに出現したのです。
 言葉が乱され、互いに意思の疎通が測れない世界とはどのような世界なのでしょうか。それを象徴的に伝えているのが11章27節以下の〈テラの系図〉です。この系図は28節の「ハランは…死んだ」と、32節の「テラは…死んだ」を枠組みとして、その中心30節に、「サライは不妊の女で、子供ができなかった」を置いています(30)。つまり、バベルの塔が破壊された後の世界、言葉が乱され、互いに意思の疎通が測れない世界とは、何も生み出し得ない死の世界であるということです。
 世界は、何も生み出し得ない死の世界として、痛みの下に横たわっているしかないのでしょうか。この緊急の、そして普遍的な問いに対する答え、それが創世記12章1〜3節のアブラハムの召命なのです。
 神は死の下に横たわる世界を、命に満ちた世界にするためにアブラハムを召し出されたのです。そして、このアブラハムの召しで起こっていることは、私たちが毎週行っている主の晩餐に引き継がれているのです。聖なる畏敬の念をもって、み言葉に聞きたいと思います。

Ⅱ. 最終目的地
 世界と人類の置かれている根本的状況を記した原初史と、神と共なるイスラエルの歴史を結ぶ、アブラハムの召命記事を読んでいて、まず、私たちの目に飛び込んでくるのは「祝福」という言葉です。祝福とは人間に未来の時を信じさせ、未来に向かって働く生命力です。その言葉が、わずか2節の間に5回も使われているのです。
 2節前半では、神がアブラハムを「祝福し、……名を高める」とあり、2節後半では、祝福を受けた者が祝福を生み出し、与える者となる、つまり「祝福の源」であるとあります。そして3節では、世界の祝福がこれとの関連で語られるのです。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、……地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と。
 ここには、何も生み出し得ない死の世界を生きる人間に、大きく未来を開かんとする、並々ならぬ神の決意を感じます。ここで畳み掛けるように語られる5回の「祝福」はあたかも、原初史で5回くり返される「呪い」を一つ一つ打ち消していくかのようです。
 善悪の知識の木の実が食べられた時、神は蛇に対して「呪われるもの」と宣言し、また男に対しては、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」と言われました。また、弟の血を流したカインには、「今、お前は呪われる者となった」と語り、ノアの洪水物語の結びでは、「人に対して大地を呪うことは二度と住まい」と語り、そして最後には、ノアが息子のカインに「呪われよ」と語ったのです。
 原初史を書いているのは、千年の後も「栄華を極めた」と言われた繁栄の時代を生きていた人です。この人は、世界と人類と文化は問題に満ちているとしたのです。労働は虚しく、実りなく、あてのない放浪生活にあけくれ、常に死の恐怖に悩まされる、自由も生きがいもない隷属的な生を送るのです。世界は呪われていると。

 この呪われた世界を神は、ひとりの人アブラハムによって命に満ち溢れる祝福された世界にするとしたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」
 ここにいう「大いなる国民にし、名を高める」とは、イスラエルの大国化と、世界の中での優位を誇った言葉ではありません。この人は神の約束の成就をソロモンの時代に見て歴史を書いているのではないのです。言い換えますと、この豊かさは神の約束の成就ではないとしたのです。それは地を「与える」という伝統的な語を避けて、「示す」としている点に端的に表現されています。
 では、神がアブラハムに示された地とはどこでしょうか。私は先ほど、アブラハムの召命において神はこの歴史をどこへ導いていこうとしておられるのか、その最終目的地が明示されていると言いました。それは、新約聖書の証言から振り返って見るとき、特別の重みを持ちます。例えば、ペンテコステの日に行われたペトロの説教にこうあります。「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです」(使徒3:25−26)。
 使徒言行録の著者は、アブラハムが祝福の源とされた約束は、イエス・キリストにおいて成就したとしたのです。アブラハムの選びと彼の祝福の無比の新しさ、つまり、神がこの歴史をどこへ導いていこうとしておられるのか、その最終の目的地、全世界の祝福は、御子イエス・キリストの十字架の死と復活にあるのです。
 このことを最も端的に描いたのがヨハネ福音書12章20節以下です。それは過越祭の祝いの時のことです。礼拝するためにエルサレムに上ってきた人々の中に、何人かのギリシア人がいました。主イエスは、その人たちが自分に会いたがっていると知ると、こう言われたのです。「人の子が栄光を受ける時が来た!」主イエスは、数人の異邦人が自分に会いにやってきたことに、終末の完成の日に起こること、「国々はこぞって大河のようにそこに向かう」(イザヤ2:2)を先取りされたのです。
 ちなみに、人の子が栄光を受ける時とは、主イエスが十字架に上げられる時です。主イエスは言われます。「わたしが地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう!」(12:32)。ヨハネはこの主の言葉に次のような説明を付しています。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(12:33)と。

 Ⅲ. 憂鬱と回心
 アブラハムの召しに始まる旧約聖書一千年の歴史、その旅の目的は、人の子が十字架に上げられる一日を目指す旅である。ここに、アブラハムの召しと彼の祝福の無比の新しさがあるのです。
 そのことを思う時、アブラハムの召しと彼の祝福の無比の新しさは読者を驚かせます。なぜなら、何も生み出し得ない死の世界を、命に溢れる祝福された世界にするために神が選ばれたのは、血気盛んな若者ではなく、老年期のアブラハムだからです。この時アブラハムは75歳、妻サラは不妊の女でした。ユダヤの伝統では死んだも同然の人たちです。神は死んだも同然の夫婦によって、何も生み出し得ない死の世界を、命に溢れる祝福された世界につくり替えるというのです。それは私たちの自然な感覚に反します。なにゆえ神は、全世界の祝福の源としてアブラハムを選ばれたのでしょうか。
 そのことを思い巡らしていた時、ウィリアム・ジェームズが『宗教的経験の諸相』の中で語った言葉が思い起こされました。ジェームズは、宗教経験の主要な二つの現象である憂鬱と回心を取り上げ、フロイト学派がこの二つの現象を、本質的には青春期の現象であって、それは性生活の発達と同じ時期に起こる現象であるとしたことに異を唱えます。「もしこの問題が、同時に起こるという点から決定されるべきものであるとすれば、とくに優れて宗教的な年齢は、むしろ、性生活の発酵が過ぎてしまった老年期であるという事実をどうあつかえばよいのであろうか?」
 ジェームズは言うのです。「とくに優れて宗教的な年齢は、……老年期である」と。なぜそう言えるのでしょうか。心理学者は宗教経験の二つの主要な現象として、憂鬱と回心を上げています。
 75歳にして、妻は不妊、このときアブラハムは憂鬱そのものではなかったでしょうか。この時のアブラハムには、将来も希望もないのです。
 では、宗教経験のもう一つの主要な現象、回心についてはどうでしょうか。これとの関連で注目したいみ言葉があります。それはヨハネ福音書8章が伝える、姦淫の現場で捕らえられた女を巡る記事です。モーセの律法という伝統を振りかざし、こういう女は石で打ち殺せと執拗に叫ぶ人々に向かって主イエスが、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」との一言を放つと、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っ」たと言うのです。
 ヨハネは、年長者から回心が始まったと語るのです。私は、なぜ神は呪われた世界の「祝福の源」として高齢者アブラハムを選ばれたのか、その理由がここあるのではないかと考えています。
 年長者から回心が始まる! なぜ? 年老いて子がなく、将来も希望もないアブラハムに、神はこう言われたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」神はアブラハムに想像を絶する慈愛を示されたのです。実は、聖書は、究極のところ、人間がめいめい救いを受けるところに悔改めの唯一の動機を見ているのです。神の慈愛が悔改めの唯一の動機なのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」このアブラハムに示された神の慈愛が、アブラハムを深い悔い改めに導いたのです。

 このアブラハムの回心との関連で注目したいのは、パウロがフィリピの信徒たちに行った告白です。パウロはキリストを知る前、自分の出自を誇る者でした。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした!」(フィリピ3:5−6)。
 このときパウロにあったのは「わたし」だけです。この宗教的エゴとしての「わたし」ほど頑ななものはありません。パウロはそれを「教会の迫害者」破壊者と語ったのです。宗教的エゴが支配するところでは、教会は形成されないのです。
 こう語っていたパウロが、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。」
 イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさが、パウロを肉の誇り、宗教的エゴから解放したのです。回心へと導いたのです。

 何も生み出し得ない死の世界を、命溢れる世界にするために神は75歳のアブラハムを「祝福の源」とされたのです。この神の救いの計画の頂点に十字架のキリストが立っているのです。そして私たちは主の晩餐で、「すべての民の救い」という神の救いの計画に参与するのです。このことの典拠となるのが預言者イザヤの言葉です。
 「万軍の主は、この山で祝宴を開き、すべての民に、良い肉と古い酒を供される。主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる!」
 然り、主の晩餐はすべての民の救いの先取りとしての祝宴なのです。
 先週行われた修養会では時間がなく、触れることができませんでしたが、教団の聖餐式文にはこの視点が欠落しています。教団の式文は、このわたしが敬虔な信仰をもって聖餐に与る、そこに重点が置かれているのです。もちろん、敬虔な信仰をもって聖餐に与ることを否定するものではありません。しかし。アブラハムの召しに始まり、キリストの十字架で完成する神の救いの計画は、すべての民の祝福にあるのです。
 2000年に及ぶキリスト教の伝統を今に伝えるカトリックのミサ典礼は、この視点で行われています。「全世界の救いとなるこの生け贄、御からだと御血とをあなたに献げます。……父よ、すべての人を心に留めてください。その人びとのために私たちはこの供え物をささげます」と祈るのです。
 アブラハムの召しに始まり、十字架のキリストで頂点を迎える万民の救いという神の救いの計画に、私たちは主の晩餐で参与するのです。キリストの肉を食べ、血を飲むごとに、それによって私たちは、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのです。
 この終末における救いの完成を先取りする主の食卓に与るひとりの信仰者は孤独なひとりではありません。「世にのこる民、去りし民とともにまじわり、神をあお(ぐ)」(讃美歌191、4節)のです。主の食卓に与る者は、主にあって祝福を生み出す者であり、世界にとって祝福の源、神の生命の媒体なのです。この強烈な信仰が死の下に横たわる世界史を切り開いてきたのです。

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