プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない。
 子供たちがもういないから。」(マタイ2:18)。

 わたしたちは「恩寵への感覚」を取り戻せるか。「十字架につけられた神」が「キリスト者の神」になることはあるのか。
 かつて近代自由主義神学の代表者アルブレヒト・リッチュルは、「神についての充分なる概念は愛の概念の中に表現されている」ことを発見し、この「神の愛」によって「世界の問題が解決され得る」ことを確信して、喜びにみたされたという。
 世界の問題を解決する神の愛、という音づれ以上に喜ばしき音づれがあるだろうか。私たちも出来ることならリッチュルとこの喜びを共にできたらと思う。しかし私たちは、近代自由主義神学者たちがソプラノで「神の愛」を声高く歌うのを聴いて、「友よ、此の調べにはあらず!」と言わざるを得ない。
 キルケゴールの美しい言葉を想い起こす。「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり!』と歌っている。しかしこれらのソプラノの下にあたかも潜められたバスの如く、犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声が響く、曰く、『神は愛なり!』」
 私たちが歌いたいのは、「犠牲とせられ給いし人の『深き淵より』の声が響く、曰く、『神は愛なり!』」というバスの旋律なのである。

 一体、このお方は、どれほどの悲しみを背負われて、この地上を生きられたのだろうか。痛みに於ける神、十字架につけられた神は、御自身の痛みをもって私たちの痛みを解決し給う神なのである。イエス・キリストは、御自身の傷をもってわたしたちの傷を癒し給う主なのである(Ⅰペトロ2:24)。
 このようにしてマタイは福音書の始めの2章ですでに、主イエスを見るべき「次元」を確かなものとしたのである。主イエスの活動が始めてイエスを、イスラエルの救済者とするのではない。彼はその始めからすでに「イエス」であり、インマヌエルであり、神の子なのであると。御子は、慰められることを拒むほどの悲しみの真只中を歩まれるお方! その歩みは十字架への道以外の何ものでもないと。然り、十字架は悲しみに満ちた大地の希望なのである。十字架にわたしたちの「将来と希望」がある。

 黙示録21章は、十字架に秘められた大地の希望、わたしたちの「将来と希望」について語る。
 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない!』」

 エレミヤは「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と語りかける神の声を聞いた。私たちが今、ヨハネから聞いたのは、神が私たちの「目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」ということである。母親が泣きじゃくるわが子の顔を両手で包み込み、もう泣かなくてもよい、と言って涙をぬぐい取ってくれるように、御子は、十字架のみ傷が生々しく残るその手で、私たちの顔を包み、目から涙を脱ぐってくださるのである。そのとき、嘆きは喜びに変わる。

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