プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「『…この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。」(マタイ2:19−22)。

 マタイは、ユダヤの地ベツレヘムで生まれたイエスは、時の為政者ヘロデの殺意を逃れてエジプトへ下るも、ヘロデの死によって再びベツレヘムに戻ってきたが、そこを納めるヘロデの息子アルケラオを恐れて、ガリラヤのナザレに定住したと告げる。
 これとの関連で注目したいのは、主イエスのガリラヤ伝道の拠点となったカファルナウムである。主イエスがガリラヤで伝道を開始された時、マタイはこう記す。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」と。そしてマタイはこの移動を、「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と言って、イザヤの言葉を引用したのである。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ!」と。
 マタイが2章で描いた主イエスの場所の移動は、この御言葉と呼応するのである。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ!」マタイはここにおいて、主イエスを見るべき「次元」を確かなものとしたのである。イエスは「死の陰の地に住む者」に射し込む光として、ガリラヤのナザレの住人になられたのであると。言い換えると、ベツレヘムからラマを経てエジプトへ、そしてエジプトからガリラヤのナザレへ、主イエスがその誕生の始めから、たえざる放浪生活へと駆り立てられた目的がここにある。主イエスのたえざる放浪生活は、「死の陰の地に住む者」に射し込む光として、宿命なのである。主イエスはその誕生より死に至るまで、真っ直ぐに十字架への道を進まれたのである。

 主イエスはその誕生の始めより、たえざる放浪生活―神の導きによる―へと駆り立てられた! この主イエスの在り方へのまねびに、「巡礼」という信仰の形がある。因に、「巡礼」の原義には、「寄留する」という意味がある。この意味は、巡礼者の原語にあたるラテン語の動詞ペレグリナーリからきている。ペレグリナーリには、「荒野を歩きまわる」という意味があり、それは「放浪」とほとんど同じ意味である。
 この巡礼という信仰の形に、信仰の真髄を見たのがヘブライ人への手紙の著者である。御言にこうある。「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束の者は受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(11:13−16)。

 ヘブライ書の記者は、アブラハムから始まる信仰者の生き様を、旅人、寄留者に見たのである。中世カトリック教会には、「旅する人々の教会」という概念がある。旅する人々、つまり路上の人(ホモ・ヴィアトール)という表現には、「二つの世界の間を歩く人」という意味が込められている。二つの世界とは、神の秩序と地上の秩序をさしている。人間は、地上にある間、この世の秩序に組み込まれて生きるほかはない。しかし、キリストを信じる者は、この世にありながら、すでにこの世ではなく、神の秩序に属するものとして、旅をつづけていくのである。結果として、この世の旅路は、信仰者にとって、異界(自分が属する世界の外側)となる。信仰者は、この世では異人(よそ者;ストレンジャー)のように歩むほかないのである。寄留者のように生きるほかないのである。それが「路上の人」、ホモ・ヴィアトールである。
 それは、天上のキリストが、地上を旅する姿へのまねびであり、イミタチオである。こうした有り様は、しかし放浪と紙一重である。内なる動機が消滅すれば、巡礼者はたちまち放浪者(ヴァグス)に転落するのである。「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理会という名称で世界に普及しつつある」のはそのためである。内なる動機が消滅した放浪者の姿がそこにはある。

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