プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。……』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:2、4)。

 マルコが伝えるこの記事で、「マルコの関心は4〜5節にあるということを、言葉づかいの上から結論することすらできる」と言った人がいる。つまり、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤ全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」が中心であると。
 確かにマルコはこの節の前後を、旧約聖書からの引用で囲い込んでいる(2~3節と6節)。この囲い込みは、洗礼者ヨハネ=メシアの先駆者エリヤとするものである。マルコの関心は、洗礼者ヨハネをメシアの先駆者エリヤとして紹介することにあったのか。この見解には同調しがたいものがある。なぜなら「初代の教団はマルコ以前から、この旧約聖書の言葉を洗礼者に結び付けていた」からである。
 ではマルコがすべてに先立って洗礼者ヨハネの記事を置いた目的は何か。私は7、8節の洗礼者の言葉こそ、マルコがこの記事で伝えようとしたことではないかと考えている。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値うちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 「かがんで…履物のひもを解く」とは、奴隷のする仕事である。ヨハネは、自分はその値うちさえないと言うのである。ヨハネはこう語ることで、比較を絶する「偉大な方」が、何人も並び立つことのできないお方が自分の後から来る、と言ったのである。こう語ることでマルコは、読者の関心をエリヤの再来であるヨハネではなく、「その方」に向けさせたのである。

 このマルコの関心は、同じ記事を伝えているマタイやルカと読み比べてみると一層はっきりする。マタイとルカは、間近に迫った神の審判から救われよ、と人々に悔い改めを迫り、悔い改めた人々に洗礼を施すことを使命としたエリヤの再来ヨハネに関心が集中している。ルカはこんな言葉を付記している。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについても、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(3:15)。
 ある研究者は、マタイやルカが伝える記事に、洗礼者ヨハネの元々の宣教があったのではないか、と言う。つまり、マタイとルカはヨハネの宣教を忠実に再現していると。例えば、マルコが「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」で結んでいるヨハネの言葉に、マタイとルカはさらにこう付け加えている。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:12、ルカ3:17)。言い換えれば、マルコが伝える洗礼者の言葉には、差し迫った終末の審きという関心が後退しているのである。
 このことは次の点にも確認できる。マルコが、7節でより強い方の到来を語り、8節で、洗礼についての文章を配置したのは、「たぶんより古い形を保存している」。その上で、「しかし8節については、『聖霊と火で』洗礼を授けるとしているマタイ=ルカの平行記事の方が、元来の伝承を保存している」と言うのである。つまりマルコは「聖霊と火」による洗礼、終末の審判としての要素を削除したのである。
 
 以上の考察から、私たちは次のように問うことができる。洗礼者ヨハネはメシアを期待していたのか、それともただ神ご自身が審きに来られるのを期待していたのか、と。それを断定することは困難である。しかし残された資料から、少なくともマタイとルカは、洗礼者は神の審判を期待していた、つまり、終末の審きが切迫している、その自覚の中にヨハネは生きていたと理解していたように見える。
 それに対してマルコは、洗礼者が期待していたのは神の裁きではなく、メシアの到来であるとしたのである。マタイとルカだけが伝える記事に、獄中から二人の弟子を遣わし、「来るべき方はあなたでしょうか(マタイ11:2以下、平行ルカ7:18以下)と問わせるヨハネの記事がある。マルコが描くヨハネには、メシアの先駆者として一点の疑いもないのである。

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