プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1:7−8)。

 マルコが伝えるヨハネの説教の中には、マタイとルカが伝える倫理的な宣言(マタイ3:7−10、ルカ3:7−14)がない。マルコは洗礼者の説教から倫理的要素を省いたことで、7−8節の二つの文章、つまり「来たるべき方」への期待を一層強調したのである。然り、差し迫った終末の審きを前にして為すべきことは、審きから救われるために罪を悔いることではなく、ヨハネの後から来る、ヨハネとは比較を絶する「強い方」の到来に人々を備えさせることなのである。言い換えれば、私たちが罪を悔いたところで、終末の審きを免れることはできない。「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」(マルコ13:20)のである。
 
 それにしてもマルコがヨハネの言葉で強調した「来たるべき方」への志向、イエスがヨハネより比較にならないほど「より強い方である」ということは何に基づいているのか。ある研究者は、この箇所の訳し方としては、「預言者イザヤの書に〜と書いてあるように、ヨハネが登場した」(協会訳)とするのではなく、「〜と書いてある」という説明文を、「イエス・キリストの福音(喜びの音ずれ)の初め」という言葉に結び付けて解するのがよい、と教える。つまりマルコは、「洗礼者の登場という」ある特定の出来事ではなく、神の新たな介入ということ自体が、旧約聖書の成就である、と見ているのであると。そして、こう見ることによって、後に続くすべてのことが、神の新たな介入=預言の成就という光の中に置かれることになるのです。つまりマルコは、主イエスがまだ登場しない以前から、神の経綸が成就する「来たるべき方」方として宣べ伝えているのである。

 新約聖書を―きわめて根本的な点を見るだけでも―最も遅い時期に書かれた書に至るまで貫通しているのは、全く新しいことの到来に対する驚きのパトスであり、神の救済行為の全く新しい地平が開ける始まりに人々が置かれているという圧倒的な自覚である。神の国が来た。その新しい出来事—イエスの宣教、彼の死と復活—から旧約の理解が生じる、とフォン・ラートは言う。マルコはこの言葉によって神の新たな介入を宣言したのである。「神の子イエス・キリストの福音の初め」は、まさに「神の新しい時の中に置かれているという感情の高揚」を表現したマルコの言葉なのである。そしてマルコはこの言葉で、神の新たな介入は審きのためではなく、聖霊による洗礼のためであるとしたのである! 
 聖霊によるバプテスマとは何か。それについての優れた注解はテサロニケへの信徒への手紙である。少し長いが引用する。
 「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。…あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、…全ての信者の模範となるに至ったのです。…あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

 「この御子こそ…来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」鍋を真っ赤に焼いても消すことができない錆を清めるために、天を引き裂いて地に下り、十字架の死を遂げ、死んで甦られたイエスだけが、わたしたちを終末の審きから救うことができるのである。バプテスマのヨハネが宣べ伝える悔い改めの洗礼ではなく、ゆえにわたしたちの悔い改めではなく、「神が死者の中から復活させた方」イエス!こそ、わたしたちを「来たるべき怒りからわたしたちを救」うことができるのである。

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