プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』」(マタイ3:13−14)。

 ここには主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時にあったことが伝えられている。主イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実は、初代教会にとって「重い負担」になったといわれる。イエスがヨハネの風下に位置することになるからである。各福音書には、このことを巡り教会の苦闘の跡が見られる。例えば、ルカ福音書は、確かに主イエスは洗礼を受けるが、だれから洗礼を受けたのか「推定することができない」ような書き方になっている。ルカは、領主へロデが弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことをヨハネから厳しく糾弾され、「ヨハネを牢に閉じ込めた」と記した後に、主イエスが洗礼を受けた記事を置いているのである(3:20、21)。また、ヨハネ福音書は、主イエスが洗礼を受けたことには間接的にしか触れていない。
 マルコだけが何のこだわりもなしに、主イエスはヨハネから洗礼を受けたと伝えている(1:9−11)。なぜマルコには、主イエスがヨハネから洗礼を受けた事実が「重い負担」にならなかったのか。ある研究者は、「マルコの関心事はただ10−11節(つまり天が裂けて霊が下り、天からの声がした)にあって、洗礼そのものについてはきわめて短く触れているに過ぎない」と言っている。

 主イエスがヨハネから洗礼を受けたことは、初代教会にとって「重い負担」であったことは事実である。この負担に真正面から取り組んだのがマタイ福音書である。マタイはそれを、マルコの伝承に、主イエスと洗礼者が交わした問答を挿入する、という形式で行った。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。」(3:14−15)。

 改めて言うまでもなく、主イエスがヨハネから洗礼を受けたことは、主イエスの存在とその働きを知る上で決定的な役割を果たしている。主イエスがご自分の洗礼の時に最大限の意義を認めていたことは、エルサレムに上られた後にあった「謎めいた記事」によって知られる。主イエスが神殿の境内で教えておられると、祭司長や民の長老たちが近よってきて、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」(マタイ21:23)と詰め寄る。すると主イエスは、ヨハネの洗礼は神からのものか、それとも人からのものかと問い返されたのである。主イエスのこの反問は、答えを回避するためのはぐらかしとか、駆け引きというようなものではない。それは「わたしの権威はヨハネの洗礼に依拠している。より具体的に言えば、私の権威は、ヨハネから洗礼を受けた時に起こった出来事にある」と言っているのである。
 私たちはこれまで、主イエスと洗礼者ヨハネの幼児期物語をとおして、「イエスの宣教を叙述する際最も重要なことは、どこに出発点を置くかということである」(エレミアス)と再三聞いてきた。つまり、どのようにして主イエスは民衆の前に立ち、福音を告知することになったのか、この第一のもの、最も深い神秘であるところのもの、ゆえに「言うべからざるもの」を歴史的に捉えることができるのかどうかにある、ということである。今、その答えが与えられたのである。それは、主イエスがヨハネから洗礼を受けたこと、より具体的には、ヨハネから洗礼を受けた時に体験したこと、それこそが主イエスの宣教の出発点、すなわち第一のもの、最も深い神秘であるところのもの、「言うべからざるもの」なのである。
 細心の注意と最大の用心をもって、一体、主イエスに何が起こったのかを問いかけたいと思う。

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