プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。……イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3:16−17)。

 ヨハネから洗礼を受けられたとき、主イエスの身に何が起こったのか。ある研究者は、主イエスの洗礼にまつわる伝承が五つあると言う。⒈マルコ1:9−11、これにマタイ3:13−17が依存している。⒉ルカ3:21以下、マルコに類似しているが文言内容上独立の伝承。⒊ヨハネ1:32−34 洗礼者の側からの描写として。⒋「ヘブライ語で記され、ナザレ人たちが読んでいる福音書」の二次的、独自の叙述。⒌十二族長の遺言 ユダヤ人キリスト教徒の間に残っていた古い伝承、の五つである。
 この五つの伝承は個々の点で異なる。しかし、主イエスに聖霊が下ったことと、これと結びついてなされた宣言の二つの出来事はすべての伝承に共通している。言い換えると、この二つの表現を超えて付加されている描写は、すべて後代の修飾と見てよい、と。
 例えば、主イエスの上に霊が下る記事には「天が開けた」とか、光、あるいは火が輝き渡ったという表現があるが、これらは皆、神がその栄光をあらわすために閉ざされた天の門を開いたことの視覚的な描写である。また、神の霊が「鳩のように」(16)とあるのもこれと同様の描写である。
 初代教会はこうした描写でもって主イエスの洗礼の時の比類なさを際立たせようとしたのである。つまり、天が開けたこと、聖なる神殿から聖性が啓示されたこと、天から声が聞こえたこと、また恵みと知恵と聖性の霊が天から注がれ、主イエスの上に留まったこと、さらには子たる資格が授けられたこと、これらは終末的な神の恵みの豊かさと救いの時の到来とをさまざまな仕方で言い換えたものである。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことで、生命の水が流れ、呪われた時は終わり、楽園の門が開かれたのである。世界の完成が今すでに始まったのである。

 なぜこのように言えるのか。それについて重要な手がかりを与えているのが、神の霊が主イエスに降ったことと関連して語られた宣言、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という引用句である。
 この宣言も個々の点では違っている。例えば、共観福音書では天からの声とあり、ナザレ人福音書では霊が発した言葉となっている。またヨハネ福音書では、洗礼者がこの言葉を語っている。また、この宣言が主イエスへの呼びかけの形をとっているものもあれば、洗礼者に向けられたもの、さらには民衆を対象にしているものもある。
 しかし最大の相違は、宣言の言葉の違い、正確に言いうと、ここに引用された旧約聖書の違いである。学者たちは細心の注意と最大の用心を払ってこの言葉を確定しようとしている。宣言の言葉を確定することは、主イエスの存在とその働きを知る上で決定的な意義を有しているからである。

 従来、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、詩編2編7節(「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」)とイザヤ書42章1節(「見よ、わたしが選んだわが僕、わが魂が喜ぶわが愛する者、わたしは彼のうちにわが霊を置こう」)の混合と解されてきた。それによれば、主イエスの存在と働きは、王としてのメシアであると同時にまた、神の僕のそれであるということになる。
 四つの福音書の見方は共通している。ユダヤの民衆が期待していた王的メシアに対して、主イエスは神の僕としての召命を全うしたとしている。言い換えれば、主イエスが洗礼の時に聞いた天からの声は、イザヤ句にのみ依拠しているということである。この解釈に信憑性があるとすれば、「この宣言は王の即位式とか神の子に選ばれる礼典とかあるいはこれと類似のものとかとは元来何の関係もない」ことになる。つまり天からの声は、メシア王の表象領域ではなく、神の僕についての聖書句の世界に私たちを導いていくのである。
 ここに、マタイとルカが伝えている洗礼者ヨハネの「来たるべき方はあなたですか」(マタイ11:3、ルカ7:19)との疑念が入り込む余地がある。洗礼者ヨハネが期待していたのは、神に逆らう者たちを「鉄の杖で打ち砕く」(詩編2:9)ダビデのようなメシア王だったのである。しかし、ヨハネの目の前に立つ主イエスは「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すこと」(イザヤ42:3協会訳)のない神の僕なのである。

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