プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記17:1-14、マタイ16:13-24、ロマ3:21-26
讃美歌 280

 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。」(創世記17:1−4)

Ⅰ.笑い
 きょう、皆さんと共に、裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は創世記17章1節以下です。私たちはここで、アブラハムとサラに、子供が生まれるという喜びの使信を聞きます。
 土の塵でありながら神のようになろうとした人間の罪ゆえに世界は呪われ(3:14、17、4:11、8:21、9:25)、何も生み出し得ない死の世界と化したその世界を、神は命溢れる祝福された世界にするために、アブラハムを選び、「祝福の源」とされたのです。そのときブラハムは75歳でした。それ以来、アブラハム物語の最大の関心事は、だれが後継者となるのかでした。その意味で後継者の誕生を告げる創世記17章は、アブラハム物語の前半のクライマックスです。あれから四半世紀、ようやくアブラハムは我が子をその腕に抱くことになるのです。
 しかし、この段落を覆っているのは、あなた方の子が生まれると聞いたアブラハムとサラの喜びではありません。確かにアブラハムとサラは「笑い」(17、18:12)ました。その結果、生まれる子は「イサク(彼は笑う)」(19)と命名されることになるのです。しかしその「笑い」は、決して喜びの笑いではなく、むしろシニカルな笑い、つまり冷笑です。語り手はそれを次ように描きます。神がアブラハムに現れ、あなたの妻サラを祝福し、サラによってあなたに男の子をあたえよう、と言われると、アブラハムはひれ伏して笑い、密かにこう言ったのです。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17)。
 このときアブラハムは99歳、子どもを生むには、生物学的に彼の肉体は完全に死んだのです。しかも妻サラは不妊の女でした(11:30)。だからアブラハムは、あなたたち夫婦から子供が生まれると聞いて、笑うしかなかったのです。

 このときのアブラハムとサラの笑いを思い巡らしているとき、フランスの劇作家マルセル・パニョルが「笑いについて」語った言葉が思い起こされました。彼は「笑いは勝利の歌である」と言います。そして、自分の優越性を笑い、ひとの劣等性を笑う二種の極端な笑いを結合する完全な笑いがある、といい、その美しい例として、若い母親が赤ん坊を眺めて笑う笑いを挙げるのです。それは優越感や劣等感からくる笑いではないと。「笑うのは彼女がこの子供を創造したからであり、しかも世界中で一番美しい子供_それはもう議論の余地がない_を作ったからだ」と。
 改めて言うまでもなく、この時アブラハムとサラにあったのは、母親が赤ん坊を眺めて笑う「完全な笑い」ではありません。北森嘉蔵先生は、この時のアブラハムの笑いについて次のように解説しました。「およそ人間がもたらした笑いでこのときのアブラハムの笑いほどものすごいものはないであろう」。
 きょう、この礼拝に願いを託すことがあるとすれば、それは、この礼拝が終わる時、私たちの笑いが「勝利の歌」になっていることです。共に御言に聞きたいと思います。

Ⅱ.揺らいだ信頼
 ここ創世記17章は、アブラハム99歳の時、神が現れ、アブラハムと妻サラとの間に生まれる子孫と永遠の契約を結ぶということが語られます。因みに、語り手がアブラハムの年齢に言及するのはこれで3度目です。最初は、創世記12章4節、アブラハムが呪われた世界の「祝福の源」として選ばれた時です。アブラハム75歳の時でした(12:4)。2度目は、約束の地に移り住んで10年目、不妊の妻サラの提案で、エジプトの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうけた時です。み言葉は事の次第を次のように結びます。16章16節、「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」。そして3度目が17章1節、「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れ」たです。いずれも、アブラハムの生涯における重大な転機となっています。
 すでに触れたように、アブラハム物語の最重要関心事は後継者問題です。アブラハム物語はこのことのために15章、16章、17章の三章を割いているのです。このことからも、関心の度合いが分かります。
 15章では、「あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の言葉が幻の中でアブラハムに臨むと、アブラハムは答えます。わたしには受けた報いを受け継ぐ後継者がいないと。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。……家の僕が跡を継ぐことになっています」と。
 すると神は、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言って、アブラハムを外に連れ出し、こう言われたのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。……あなたの子孫はこのようになる」と。語り手は、この一連のやりとりを次のように結びます。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた!」
 これに続く16章でアブラハムは、妻サラの提案に従い、エジプトの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうけたことが語られます。それは15章で、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と語られた神の言葉に対する、アブラハムの応答でした。確かに、イシュマエルはアブラハムから生まれたのです。85歳のアプラハムはまだ子どもを作れたのです。
 神の歴史計画実現のためにアブラハムは神と協働し、持てる力を出しきって後継者を得たのです。しかしそれは、アブラハムの生涯で最大の汚点となりました。そもそも神の約束の実現を待つとは、「いまか、いまか」と待つことではありません。それは本来的に信頼の行為です。それは現実の事態に〈反して〉とる態度であり、それによって、現実の暗さと重さとを乗り越える在り方なのです。このときのアブラハムには、この在り方が欠けていたのです。神の約束の実現のために、人間が持てる能力を使う、いわゆる協働は、神への不信と裁断されたのです。その結果神は、13年もの間アブラハムに沈黙されたのです。

 神の約束を信じて旅立ってから10年、いつまで待っても実現しない神の約束を実現するために、アブラハムは最後の力を振り絞りエジプトの女奴隷との間に子をもうけたのです。結果、神は13年もの間アブラハムに御顔を背けたのです。そして今、神は13年に及ぶ沈黙を破り、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」(19)と言われたのです。
 それにしても語り手は、16章16節から17章1節の間に横たわる13年間の神の沈黙で何を伝えようとしたのでしょうか。私は、あなたの子孫は空の星のようになる!との約束の実現を待っていたのは、アブラハムだけではない、神が(!)この約束を実現する時を待っておられたのではないかと考えています。言い換えますと、アブラハムが人間の力で神の歴史計画を実現する協働の可能性、生物学的に子をもうける可能性が全くなくなる時を、神は待っておられたのです。
 アブラハムとサラには、もはや生物学的に子を産む可能性が全くない! そのとき神は13年間の沈黙を破り、アブラハムに現れてこう言われたのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」
 私たちは、アブラハムに語られたこの言葉をどう聞けばよいのでしょうか。アブラハムは自分に残された力を総動員し、エジプトの女奴隷ハガルとの間にイシュマエルを設けたのです。しかしそれは神の全能に対する不信とみなされ、以後神は13年間アブラハムに沈黙されたのです。
 この神の沈黙は、アブラハムは神に従い得ない、つまり「全き者」足り得ないことを完膚なきまでに暴いたのではないでしょうか。そのアブラハムに神は、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われたのです。いったい、神はアブラハムに何を求めておられるのでしょうか。

Ⅲ.満面の笑み
 そのことを黙想していたとき、マタイによる福音書16章13節以下の出来事に導かれました。力ある業と権威ある言葉で神の国の到来を宣べ伝えながら、フィリポ・カイサリア地方に来られた時、主イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われます。弟子たちが、人々はあなたのことを「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、預言者の一人だ」と言っているとの答えが返ってくると、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と畳み掛けられたのです。するとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。それを聞くと主イエスは、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とう、驚くべき祝福の言葉を語られたのです。
 そして、このときから主イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたのです。するとペトロが主イエスを脇へ連れ出し、今度は諌め始めたのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って。これを聞くと主イエスは、まことに激烈な言葉でペトロを叱ったのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている!」と。

 わたしはフィリポ・カイサリア地方であったこの一連の出来事は、子孫を巡る神とアブラハムの物語を読み解く鍵になるのではないかと考えています。アブラハムがエジプトの女奴隷ハガルとの間に、自らの能力でイシュマエルを設けたことは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている!」ということではないのか。
 自分の力で神の歴史計画を実現しようとしたアブラハムは神の邪魔をしたのです。ゆえに神はアブラハムに13年間沈黙されたのです。そして神はその沈黙を破り、こう言われたのです。「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」
 同じことがここでも起こっているのです。ペトロを「サタン」と言って退けたその直後、主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい)」が語られたのです。
 その信仰が本物ならば、つまり十字架につけられた神を信じする信仰であるならば、私たちもここで起こっている完全否定と完全肯定を経験するのです。完全否定を経ない信仰では、同情的イエスは理解できても、十字架のキリストは理解できないのです。

 主イエスはペトロの存在を全否定した後に、「わたしに従って歩み、全き者となりなさい」と全肯定!されたのです。いったい、ここで何が起こっているのでしょうか。それとの関連で紹介したい一文があります。それは、佐藤繁彦が『ルッターの根本思想』で語った言葉です。佐藤は言います。「神は、活かそうとするときは、殺す神であり、神がわれらを義とするときには、われらのうちにある一切の善きものを破壊するのである」と。
 然り、主イエスはペトロを「全き者」とするために、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている!」と言って、ペトロのうちにある「一切の善きものを破壊」されたのではないのか。

 今年私たちは、宗教改革500周年記念を迎えています。ローマ・カトリック教会の分厚い壁を打ち壊したルターは、〈殺す神〉ということを語ったと言われます。それはロマ書で、義認を説く所で語られました。いわば福音の真髄を語る所で〈殺す神〉という激しい言葉が語られたのです。そして今、500年の時を経たプロテスタント教会を眺める時、隔世の感があります。「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代わってしまった」(ホプキンズ)のです。言い換えますと、今日、プロテスタント教会の講壇から聞こえてくるのは、人間の理想的属性を具現化したものとほとんど変わらない愛と憐れみの神であって、ルターが語った〈殺す神〉、すなわち不信心な者を救うために御子イエス・キリストを十字架につける神ではないのです。

 ルターの〈殺す神〉というまことに激烈な言葉は、ロマ書で義認を説く箇所で、福音の真髄を語る所で語られました。ローマの信徒たちに書き送った手紙の中でパウロはこんなことを記しています。ユダヤ人もギリシア人もことごとく罪のもとにある。義人なし、一人だになし。誰も彼も役立たない者になっているとの、全否定を語ったあと、こう言葉を続けるのです。
 「ところが今や、……神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。……人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」(ロマ3:21−24)。
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです!」言い換えれば、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった!」(Ⅱコリント5:17)のです。
 然り、世界の完成がキリストの十字架において始まったのです。教会は、「キリスト・イエスによる贖いの業」を記念する主の晩餐で、主が来られる日まで、主の死を、世界の完成を告げ知らせるのです。私たちが主の晩餐で見るのは、すべてが新しくなった世界なのです。私たちは主の晩餐で、全てが新しくなった世界を生きのです。
 創世記1章の記者は、神はお造りになったものをご覧になり、「極めてよかった(はなはだ美しかった)」と言われましたと記しました。キリスト教2000年に及ぶ祈りの言葉を今に伝えるカトリックの『ミサ典礼書』には、「キリストの過越によって新たにされた世界は、時の始めに造られたものよりもさらに美しい」とあります。

 私たちは主の晩餐で、キリストにあって新しく造られた者を見て、満面に笑みを湛えた神を見るのです。「笑うのは(神)がこの子供を創造したからであり、しかも世界中で一番美しい子供_それはもう議論の余地がない_を作ったからだ!」然り、私たちは主の晩餐で、議論の余地がない、世界中で一番美しい子供、全き者、キリスト者を造った、満面に笑みを湛える〈殺す神〉を見るのです。

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