プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記18:16-28、ルカ23:32-38、ロマ8:18-25
讃美歌 502

 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。……全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(創世記18:23−26)

Ⅰ. 執り成しの契機
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言は創世記18章16節以下です。ここには、アブラハムがソドム・ゴモラのために「執り成し」をする記事が伝えられています。因みに、ソドム・ゴモラの滅亡に関する18章から19章の記事は、学者たちによって〈ヤハウィスト〉と命名された人によって書かれたものであることが判っています。イスラエル史上最も栄えたダビデ・ソロモン王時代(BC11−10C)の人です。
 ところで、この物語全体は、作者の思いや感情を表す「完璧な叙情詩的技法」によって貫かれていると言った人がいます。つまり語り手はこの物語によって、自らの内面を読者に伝えようとしているというのです。ゆえに、読者は細部にまで気を配り、繊細さや隠されている暗示をも理解するよう、開かれた感受性をもってテキストと向かい合わなければならないと。この物語を読む者は、パスカルが『パンセ』の冒頭に記した「繊細な精神」_「よい眼を持つこと」を必要とするのです。聖霊の照明を祈り求めつつ、御言に聞きたいと思います。

 語り手はこの直前、アブラハムが見知らぬ三人の客人をもてなす記事を置いています。その中で客人の一人が驚くべきことをアブラハムに告げます。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう!」(10)。
 語り手は、約束の子イサクの誕生を、アブラハムがソドム・ゴモラのために執り成す記事と結びつけることによって、すべての民の「祝福の源」としてアブラハムの使命は後継者に引き継がれるとしたのです。そのことを語り手は、神の独白として次のように描いています。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである』」(17−19)。
 語り手はここで、神がアブラハムを祝福の源として選んだ12章2節の言葉__「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」__を繰り返し、それは、「彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じ」るためであるとし、それによって「主がアブラハムに約束したことを成就するため」であるとしたのです。つまり、ソドム・ゴモラのために執り成すアブラハム物語の主題は、「主がアブラハムに約束したことを成就する」ことなのです。
 わたしたちは創世記12章1節以下のみ言葉から、千年の後も「栄華を極めた」(マタイ6:29)と言われるソロモンの時代に、語り手は神の約束の成就を見ていないことを学びました。その人が今ここで、アブラハムがソドム・ゴモラのために執り成しをすることに、「主がアブラハムに約束したこと」の成就があるとしたのです。この人はその心の目で何を見ていたのでしょうか。

 ちなみに、ここで問題になっているのは、神がソドムを罰することではなく、訴えにある事柄について調査することです。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」とある通りです。
 ソドム・ゴモラに対するこの神の対応は、バベルの塔物語に対する神の対応と明らかに違います。そこでは、天に届く塔のある町を建てようとした人間の企てをご覧になった神は、「降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いに言葉が聞き分けられぬように」されたのです。しかしここでは、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい(のに、)。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめ」るというのです。
 私は、バベルの塔物語とソドム・ゴモラの物語における神の行動の違いに、「祝福の源」であるアブラハムの使命があると考えています。言い換えれば、ソドム・ゴモラの非常に重い罪を直ちに裁かずに、訴えが事実かどうかを神がご自分の目と耳で確かめる。ここにアブラハムの執り成しが成り立つ契機があるのです。その手続きが、今や始まろうとしているのです。

Ⅱ. 被造物の希望
 二人の御使いがその場を去ると、「アブラハムは進み出て……『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?!……』」(23)と問うたのです。アブラハムはここで「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきである」と、神の義を問うたのです。
 因みに、神の義を最も激烈な仕方で問うたのはヨブです。ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きて」(ヨブ1:1)いました。そのヨブが一夜にして、全ての財産を失い、ヨブの将来であり希望である子供たちを全て失ったのです。ヨブを襲ったこの不幸を巡り、三人の友人たちとの間で交わされる、まことに激烈な討論で神の義が問われるのです。言い換えますと、神の義を問うアブラハムの問いかけによって始まるこの対話は、以後、信仰の重大な問題として神の民イスラエルの歴史を貫くのです。

 アブラハムは、神の義を問う問いをまことに切実な言葉をもって語り出します。もし調査の結果、多数の罪人の中に少数の正しい者がいた場合、「あなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と。
 このアブラハムの問いには何かしら革命的なものがある、と言った人がいます。その頃イスラエルは、地上の裁判も神の審判も、一人の人が犯した罪によって共同体全員が責任を負うという、連帯責任の原則によって支配されていました。それをアブラハムはひっくり返し、少数の正しい者のゆえに、罪深い共同体全体への審判を神は猶予することがあり得るのか、と問うたのです。つまりアブラハムは、古い集団的思考をまったく新しい集団的思考によって取って換えようとしたのです。語り手はそれを次のように表現しました。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか!」
 驚くべきことに、このアブラハムの革命的な問いに対して、神は「然り」と答えたのです。この後アブラハムは、五十人に五人足りなかったら、四十人しかいなかったら、三十人だったら、と問い続け、ついに十人まで数を減らすのです。そして神は、この答申の全てに、「その者たちのために、町全部を赦そう」と答えられるのです。
 こうしてアブラハムは、ごく少数の罪なき者の存在が、罪の大きな共同体全体への神の裁きを押し止めることができるという、驚嘆に値する神の歴史計画の奥義を突き止めたのです。

 それにしてもなぜ、アブラハムは当時のユダヤ社会の伝統を遥かに超えた革命的問いを発することができたのか。それについて語り手は一つの示唆を与えています。それは27節のアブラハムの言葉、「塵あくたにすぎないわたし」です。私はこの「塵あくたにすぎない」に、執り成しの真髄があると考えます。執り成しとは、安全な地帯にいる者が、危険な地帯にいる者のために祈るということではないのです。「塵あくた」という低きから支えるのが執り成しなのです。私たちの執り成しは、自らを「塵あくた」とする深い悔い改めなしには成り立たないのです。教会は、この深い悔い改めなしにその使命を果たすことはないのです。

 これとの関連で心に留めたいみ言葉があります。それは、ロマ書8章18節以下のみ言葉です。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と語り出したパウロは、さらにこう言葉を続けます。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。……被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」と。
 圧巻なのは、この後に語られるパウロの言葉です。パウロはこう言ったのです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこの希望によって救われているのです!」と。
 パウロはここで、被造物のうめきと、“霊”の初穂をいただいている者たちのうめきを語ります。しかもパウロは、被造物のうめきよりも、“霊”の初穂をいただいている者たちのうめきの方がはるかに深いと考えていたようです。なぜなら、「神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる」という被造物のうめきは、「体の贖われること」を待ち望む神の子たちのうめきにかかっているからです。言い換えますと、“霊”の初穂をいただいた者たちが、「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望」まなければ、虚無に服した被造物に「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」という希望はないのです。被造物は虚無に服したまま、絶望の淵を生きるしかないのです。

Ⅲ. 執り成しの秘儀
 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。……全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか!」
 このアブラハムの革命的な問いが最も緊急な問いとして問われ時があります。それはダビデ・ソロモン王の時代から400年後、神の民イスラエルの最大の危機、バビロン捕囚の時代です。預言者エゼキエルは、この時のアブラハムの問いを前提として、次のように語りました。
 「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、……その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても__わたしは生きている、と主なる神は言われる__彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけである。』」(14:12-14,18,20)。
 アブラハムは、少数の正しい者のゆえに罪深い共同体全体が救われるとの神の言葉を聞いたのです。ところがエゼキエルは、「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、……彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけである」という神の言葉を聞くのです。いったい、この間に何があったというのでしょうか。そのことについて一つの示唆を与えてくれるのは、もう一人の捕囚期の預言者エレミヤです。エレミヤは、神がアブラハムを「祝福の源」とされた故事を引き合いに出して、こう語ります。
 「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。……
  もし、あなたが真実と公平と正義をもって
 「主は生きておられる」と誓うなら、
  諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りにする。(4:1−2)
 このエレミヤの言葉から分かるように、このときアブラハムの後継者イスラエルは、神への不従順ゆえに「祝福の源」たりえなくなっていたのです。神はソドム・ゴモラを調査しようとしたとき、アブラハムにこう言われました。「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と。それなのに、アブラハムの子孫たちは主の道から反れてしまったのです。その結果、「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、……彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけである」が語られたのです。それは「主がアブラハムに約束したこと」_人間の罪ゆえに呪われた世界を、命溢れる祝福された世界に造り変えること_の成就が危機に瀕したということです。

 人間の罪ゆえに呪われた世界、何も生み出し得ない死の世界を、命溢れる祝福された世界に造り変えるために、アブラハムを「祝福の源」と定めた神の歴史計画は、神の民イスラエルの不従順ゆえに頓挫してしまうのでしょうか。そのとき世界は、それまで誰も聞いたこともないこと、ゆえに信じ得ない神の言葉を聞くのです。それを語ったのは、学者たちによって「第二イザヤ」と命名された無名の預言者です。彼は言います。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。……わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた!」と。この苦難の僕によって「わたしたちに平和が与えられ、……わたしたちはいやされた」と。
 私たち新約の神の民は、この苦難の僕を十字架に上げられたナザレのイエスに見たのです。それを最も象徴的に伝えているのがルカ福音書です。ルカは、ご自分を十字架につける人々に対して、主イエスが神に祈られた言葉を伝えています。「(そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』)」
 然り、十字架のキリストにおいて、アブラハムの問いに始まる旧約一千年の歴史はその目標に到達したのです。十字架のキリストに神の義が啓示されたのです(ロマ3:21−26)。神は十字架のキリストによって「アブラハムに約束したことを成就」されたのです。

 自分が何をしているのか知らない者を救うために、御子イエス・キリストは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成しの祈りをされたのです。主イエスは十字架という極限の危機の領域で、執り成しの祈りをされたのです。言い換えますと、真の執り成しは、十字架という極限の危機の領域で成立するのです。そして主イエスは、この十字架に上げられた人の子を記念するように、主の晩餐を制定されたのです。つまり、教会は聖晩餐を守る時、十字架という極限の危機の領域にあるのです。そうであるがゆえに、教会は聖餐共同体である時、自分が何をしているのか知らない世界の救いのために執り成すという使命を果たすのです。私たちは、教会の宣教にとって、この次元の意義深さを決して知りつくすことはできません。罪深きこの世に、十字架のキリストをいま、ここでのこととして描き出す聖餐共同体が存在するのです。
 
 結びに、アビシネの殉教者たちの言葉を聞いて終わりたいと思います。彼らは、「主の晩餐なくして我等は生きながらえることはできない」と告白したのです。殉教者の目の前には死があるのです。しかし彼らの目は死の遥か先を見ているのです。主の晩餐があるゆえに、我らは生きながらえると! 「わたしたちはこの希望によって救われているのです!」(ロマ8:24)。

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