プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。」(マタイ3:14−14)。

 イエスとは何者なのか? マタイがここに挿入した洗礼者ヨハネと主イエスとの対話は、主イエスの上に神の霊が下り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であると宣言したその意味を正しく聞くための鍵である。ヨハネはこの直前、押し寄せる民衆にこう言っている。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値うちもない。」
 この比較を絶するお方が今、ヨハネの前に低く下ったのである。このことが如何に常軌を逸したことであるかは、ヨハネの行動が適確に表現している。「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」何人も並び立つ者のいないお方が、ヨハネの下に立ったのである。何か今、途轍もないことが起こっているのである。私たちの理性や感性のすべてを総動員しても理解しえない途轍もないこと、「言い表しえない」ことが起こっているのである。

 この時のヨハネと似た経験をした人物がいる。それはヨハネ福音書が伝える最後の晩餐の席上でのことである。主イエスは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始めたれた」(ヨハネ13:4協会訳)のである。それは奴隷のする仕事、しかも異邦人の奴隷がする仕事であった。それを主イエスが行われたのである。それが弟子たちの理解を超えた、途轍もないことであることをシモン・ペテロの反応が示している。「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」(13:5)。
 ヨハネ福音書はこの主イエスの行為によって主の晩餐の意味、すなわち十字架の贖罪の意味を解き明かしたのであるが、マタイは、洗礼者ヨハネの下に立つイエスによって何を描いたのだろうか。
 主イエスが跪いて足を洗おうとされた時、思わず足を引っ込めたペトロのように、自分の下に主イエスが立ったときヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3:14)と言った。そのヨハネに主は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われたのである。
 主イエスはここで「正しいことの成就」について語り、しかもそれを「我々にふさわしいこと」といわれたのである。何人も並び立つ者のいない崇高なお方が自分の下に立つ! この途轍もないこと、理解を絶することを解く鍵は、ヨハネ福音書が伝える最後の晩餐での洗足の記事にある。主イエスから足を洗われることを拒んだペトロに、主はこう言われたのである。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」(13:8協会訳)。主イエスがペトロの前に跪き、ヨハネの下に立つことは「私たち」のためなのである。私たちはこのキリストの奉仕を受けなければ、キリストとは「なんの係わりもなくなる」のである。身が竦み、思わず後ずさりし、その場に倒れ伏したい衝動に耐えて、私たちは私たちの前に跪く主イエスの奉仕を受けるのである。そうでなければ、主イエスが天を引き裂いて地に下られたことが無意味となる。
 ケーゼマンは言う。「地上のイエスの卑賤と崇高との間の真の逆説は、世と受難と死とにさらされて、攻撃を受けているイエスの人間性について本気で語られねばならない場合にのみ主張され得るのである。神的存在が卑しさに蔽い隠されていることは、逆説的に思われるかもしれないが、実はそうではない。その隠蔽は最深の意味では、同等でないもの、したがって互いに引き離されているものの間の交わりを可能とするのである」。
 イエス・キリストが十字架への道を歩まれるためにヨハネから洗礼を受けたことで、生命の水が流れ、呪われた時は終わり、楽園の門は開かれるのである。世界の完成が今すでに始まったのである。

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