プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4:1)。

 国内外を見わたすとき、政界の闇の深さが際立つ。どこを見渡しても光がない。キルケゴールが『単独者』まえがきに記した言葉が心に迫る。「現代においてはすべてが政治である。宗教的なものの物の見方は、これとは天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最終目標も、天と地ほども相異している。というのは、政治的なものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なものはその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して天にまで引き揚げようとするからである。」
 ロジェ・シャルチエは『フランス革命の文化的起源』の中でこんなことを言っている。18世紀のフランスでは、キリスト教の教えや掟や制度にたいする離反という深層の動きによって、革命が準備される。そのとき起こった根本的変化は、フランス社会の組織原理であり規準枠としての〈宗教〉に、〈政治〉―国家理性と絶対主義の政治―が取って代わるという変化だった。フランスを変容させたこの世俗化は、聖性の喪失として理解されてはならない。宗教から政治へと「聖性の移行」が起ったのである。以前はキリスト教の表象に注がれていた感情や情熱が、家族や市民や祖国愛に関する新しい価値に移行したのである、と。つまり、それまで聖職者が担っていた“聖性”が政治家に移行したのである。自由、平等、博愛の旗印のもと、政治に求められるのは“聖性”の実現であるとしたのである。
 政治 に求められるのは“聖性”の実現であるとは、上に立つ権威を帯びた者に求められるのは、法と正義の監視人であり、保証者であるということである。政治家は、どこにも援助者を見いだし得ない、権利を奪われた者たちすべての保証者であり、被抑圧者の庇護者なのである。貧しい人や権利を奪われた人々の拠り所なのである。そしてキルケゴールは、政治が聖性を実現することの不可能を語った。

 私たちの国は敗戦後の混乱の中から、隣国の朝鮮動乱をきっかけにして経済成長の坂を走りだし、“日本の奇跡”といわれた経済成長を成し遂げた。商社マンたちは銃を算盤に持ち替えて世界中を飛び回り、鋭い嗅覚と触覚で“富”という甘い蜜をかき集めた。その頃の日本人は“エコノミックアニマル”と揶揄された。
 時々、引き戻される言葉がある。それはドイツの経済学者ゾンバルトが膨大な資料を下に、産業革命以後の世界の変貌を俯瞰して語った言葉である。「この一世紀半の間に西洋とアメリカに何が起こったかを理解しうるものはただ悪魔の力を信ずる人のみであろう」(『独逸社会主義』)。
 ゾンバルトはその変質した時代を「経済時代」と名付けた。「経済が、経済的利益が、したがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、そのために経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている」からである。
 経済時代とは、質から量へと変質した時代の謂に他ならない。人間は個性を喪失したばかりではない。自然から引き離され都会へと追いやられ、無気味な人種になり果てた。当然、人と人との情緒的な結びつきも失われ、「個人は孤独に、おそらく歴史上のいかなる時よりも孤独」となり、仲間といっても、「砂山のなかの砂粒ほどの関係しか」持つことができないのである。
 私たちの国が脇目もふらず高度経済成長の坂を駆け上がっていたころ流行った歌に、内山田洋とクールファイブの「東京砂漠」(1976)がある。「空が哭いてる 煤け汚されてひとはやさしさを どこに棄ててきた」と謡い、あなたがいれば、あなたがいれば、あなたがいれば辛くない、うつむかないで歩いて行けると、切々と歌い上げた。人と人との心のつながりが失われ、荒れ野は自然ばかりでなく、都市に、家庭にと押し寄せていたのである。

 この現実を前にするとき、主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、「悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とある言葉に引き寄せられる。主イエスもまた、荒れ野を生きられたのである。主イエスの公生涯は荒れ野から始まったのである。その意味でここでの出来事は、現代の荒れ野を生きる私たちにとって大きな示唆となる。

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