プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」(マタイ4:3、6、9)。

 ある研究者は、荒野の誘惑の記事はマルコが伝える最古の伝承から出発すべきである、と言う。マルコはこう伝えている。「それからすぐ、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた」(1:12−13)。このマルコの記事は「まるで霧に閉ざされている」かのようであり、その表現に特有なものは「聖書の象徴言語」である。
 イスラエルの宗教的伝統では、荒野は悪霊の住処である(マタイ12:43)と同時に、また終末的な意味をもつ場所でもある。荒野からメシアは来るのである(イザヤ40:3)。メシアが登場するとき、荒野なる現実はパラダイスに変貌を遂げるのである(イザヤ35章)。
 主イエスはそこに四十日留まる。四十は、苦難と試練の時を示す象徴的数字である。マルコは、その間、主イエスは「野獣と一緒におられた」と証言する。これはパラダイスを描く動機の一つである。終末の時には、人間と動物との間に平和が支配すると期待されていた(イザヤ11:6−8)。天使が「彼の食事に仕えた」も、「パラダイスの映像に属し、そこからのみ理解されるべき」である。つまり、主イエスが荒野に登場したことで、神と人、人と人、人と自然・動物との間に交わりが回復したのである。荒野はパラダイスに変貌した、というのがマルコの理解である。

 マルコはこうした象徴言語を用いて、日常の言語では十分適切に表現できない出来事、つまり悪の克服と新しい神の国到来を描き出したのである。最も深奥な秘密に対する畏敬のあるところでは、この秘義について語る時、あからさまにはしない。このあからさまでない語り口こそ奥義の存在を指示しているのである。私たちは荒れ野の誘惑を読む時、まずこのマルコが伝える最古の伝承から出発しなければならない。「最も深奥な秘密に対する畏敬」、「あからさまでない語り口」、これを出発点としてマタイ、およびルカの記事を見て行きたいと思う。
 マタイとルカは荒れ野の誘惑で何を描いたのだろうか。マタイはルカ同様、三つの異なる場所を舞台とする三つの対話形式で悪魔の三つの誘惑があったと記す。ある人は、この三つは三つながら同一の内容を持っている、と言う。荒野の誘惑は、主イエスが第二のモーセとしてマナの奇跡を再演すべきであるということであり、神殿の屋根から跳び降りることは、主イエスの使命の正統性を証しする派手な劇的奇跡のことであり、世界中の富を与えるからサタンを拝せよというのは、主イエスが政治的指導者として花道を踏むことが内容になっている、というのである。つまり、「これら三つの誘惑物語の変異形の場合、ただ一つの同じ誘惑、政治的メシアとしての登場が問題となっている」(エレミアス)。サタンは主イエスを、洗礼において与えられた〈主の僕〉としての使命を破棄するように試みたのである。十字架への道から逃避するよう試みたのである。そして主イエスは、その試みを全て退けられたのである。

私たちは、主イエスの全活動期間を通じて、十字架への道からの逃避を意味する政治的活動への誘惑が影のように付きまとっていたのを知っている。中でも劇的なものは、主イエスが人の子の受難と死と復活についてあからさまにお語りになった時、それを聞いたペトロが主イエスを脇へ連れていさめ始めた時のことである。主イエスはペトロに向かって、「サタン、引き下がれ」(16:23)と叱責されたのである。この言葉に示されているただならぬ烈しい感情の動きは、主イエスを襲った試練がその最も深いところにかかわっていたことを物語っている。十二弟子の筆頭ペトロもまた、主イエスを十字架への道から引き戻そうとしたのである。それは主イエスを〈政治的メシア〉に仕立て上げようとしたサタンの誘惑である。

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