プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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創世記22:1-14、マタイ27:45-54、Ⅰペトロ2:1-10
讃美歌 495

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。……あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22:9−12)

Ⅰ. 悪魔の選択
 きょう、皆さんと共に裁きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げ聞きたい御言は、創世記22章1節以下です。ここには、アブラハムが独り子イサクを焼き尽くす献げ物として献げるよう神に試みられた時のことが伝えられています。
 このイサク奉献物語は、「すべての族長物語の中で、形式的に最も完成されたものであり、同時に最も深遠なもの」であり、そして難解です。しかもこの神の試みは「悪魔の選択」なのです。どちらのカードを引いても、世界は呪われたまま、死の層の下に横たわることになるのです。もしアブラハムが神の要求に答えれば祝福の継承者イサクが死に、神の命令を拒めば、「主がアブラハムに約束したことを成就する」(創世記18:19)歴史計画が頓挫するからです。どちらのカードを選択しても、人間の罪ゆえに呪われた世界を、命溢れる祝福された世界に造り変えるという神の救済計画は終わるのです。一体、語り手はこのような物語でいかなる神体験を伝えているのか。
 学者たちの中には、この物語は、古い時代に行われた(エレミヤ32:34)幼児を生贄とする風習に対する人道主義的な精神からの抗議であるとし、それを人類の宗教史における境界石と呼び、「神は死を望まず、命をこそ望み給う」という思想が表明されているという者もいます。
 しかし、著者がこの伝承を利用した目的は、それとは別のところにあるのです。それは、「主がアブラハムに約束したこと」を実現するということです。それにしても、なにゆえ「主がアブラハムに約束したこと」を実現するために、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として献げよとの試みがなされねばならないのか。それほどにこの物語の謎は深いのです。

 イサクを献げよとの神の命令がいかに理不尽であるかは、ここに至るまでのアブラハムの生涯を辿る時、一層明らかになります。アブラハムが神の召しに応え、「行き先も知らずに」(ヘブライ11:8)旅立ったのは75歳の時でした。住み慣れた土地を離れ、親しい者たちと別れることは人生における激変です。しかも、子を与えるとの神の約束は待てども待てども実現せず、サラとの間に子供が生まれたのは召命から25年後、アブラハム100歳、サラ90歳の時でした。
 イサクをその腕に抱いた老夫婦の喜びはどれほどのものであったでしょうか。それは、シメオンが幼子イエスをその腕に抱いた時に味わった、言葉では言い尽くせない輝きに満ちた喜びに比することができるのではないでしょうか。シメオンはこう言ったのです。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救を見たのですから!」
 子を産む望みが全く絶たれた老夫妻は神の救いを見たのです。それは、死のうちの生命、絶望の中の希望、暗闇に輝く光、至高の美、「約束の子」なのです。その「あなたの息子、あなたの愛する独り子」を神は、「焼き尽くす献げ物」とせよと命じられたのです。読者はこの謎に満ちた神の要求を前にして、次のように問うのではないでしょうか。イスラエルにおいてこのような神体験をした者はいたのだろうか。どのような仕方で、どのような状況でこのような体験がなされたのだろうかと。

 実は、族長物語には、神と共に歩んだイスラエルが経験したことが反映しているといわれます。例えば、私たちはこれまでアブラハム物語を通して、約束の子イサクの誕生の遅延にまつわる紆余曲折の物語を見てきました。アブラハムは約束の遅延の中で様々な信仰の試練、危機、不安や焦りを経験したのです。それはイスラエルが神と共なる歴史において経験したものでもあるのです。つまり読者はアブラハムの生涯に自らの生涯を重ねて、そこで慰めを得たのです。生きる指針を得たのです。
 では、「あなたの息子、あなたの愛する独り子」を「焼き尽くす献げ物」として献げよというこの物語には、イスラエルのいかなる神体験が表現されているのでしょうか。それを知る一つの手がかりは、この物語は、学者たちが〈エロヒスト〉と命名した、紀元前8世紀、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた時代を生きた人によって書かれているということです。つまり著者は国家の滅亡という危機の時代を生きていたのです。著者はこの物語で、国家の滅亡という危機の中を生きる人びとに、神の救いを信じて生き抜く根拠を与えようとしたのではないのか。

Ⅱ.別次元の「苦難」
 「すべての族長物語の中で、形式的に最も完成されたものであり、同時に最も深遠なもの」であるこの物語は、厳かに始まります。「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」
 語り手はこの一文によって、イサクを献げよとの理不尽な神の要求が〈試み〉であることを読者にあらかじめ知らせるのです。つまり読者は、これから起こる出来事に対して二重の視点を与えられたのです。試みられるアブラハムの視点と、試みる神のより高次の視点です。この二重の視点に、語り手の非凡な才能が示されています。語り手はこれによって、非人道的な要求をする神に対する読者の無用な反感をあらかじめ取り除くことに成功したのです。
 こうして読者はこの物語を、神の「試み」というより高次の視点で読み進むことになります。しかしヨブがそうであったように、アブラハムにとってこの試みは、言語を絶する苛酷な試練でした。3節を見ると「次の朝早く」とあります。つまりこの神の試みは夜の出来事なのです。かつて神とアブラハムが契約を結んだとき、「恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」(15:12)とあります。このときも「恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」のではないか。アブラハムはこの試みを悪夢として無視することができたのです。このような試みをする神は神ではないと。
 しかし、アブラハムは神が言われた通りに行動したのです。アブラハムは2節、「連れて……行け」という神の命令に従って、3節、「連れて……行った」のです。この動詞は、6−8節にも、また13節にも現れます。これから分かるように、語り手はこの二つの動詞で、神の理不尽な命令に黙々と従う痛ましい程にひたむきなアブラハムの服従を描いたのです。

 神の理不尽な命令に黙々と従うアブラハムの姿は、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた時代を生きた人々の目に、その心にどのように映ったのでしょうか。そのことを黙想していたとき、ボンヘッファーが獄中で語った「苦難」についての言葉が思い起こされました。彼はヒトラー暗殺計画に加わり、ゲシュタポに捕らえられ、終戦間際、「決して生き延びてはならない者」として処刑された、戦後のキリスト教界に大きな影響を残した優れた教会指導者であり、神学者です。
 「僕は、この刑務所で、二度目の受難週を迎えようとしている。ほうぼうから来る手紙の中に書かれている僕の『苦難』についての箇所を読むと、僕はそれにとても抵抗を覚える。それが、苦難というものの本当の意味を見失わせてしまうように思えるからだ。……僕たちは、苦しみということについて、しばしばあまりにも重大かつ厳粛に考えすぎているのであろう。かつて僕は、〈どうしてカトリック教徒は、このような場合に、自分にふりかかる苦しみを無視して、黙って通り過ぎて行くことができるのか〉と不思議に思ったものだ。しかしそうすることによって、彼らはしばしばもっと大きな力を得ているのではないだろうか。……
 多くのことが訂正されなくてはならないであろう。実際、正直なところ、僕はしばしば〈われわれは、何と頻繁に、自分自身の苦難についてばかり語ってきたことか〉と恥じる。『苦難』というものは、僕がこれまで経験したものとは全く異なるものであるに違いない。僕がこれまで経験したものとは全く別の次元を持つものであるに違いない。」
 語り手は、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として献げよとの神の命令に黙々と従うアブラハムの苦難で、ボンヘッファーの言う「全く別の次元」の苦難を描き出そうとしたのではないでしょうか。そうだとして、語り手は読者に、神の命令に黙々と従うアブラハムの姿に何を見て欲しいと望んだのでしょうか。
 語り手と同じ時代を生きた預言者イザヤの言葉が一つのヒントを与えてくれるように思います。イザヤは北王国がアッシリアに滅ぼされるという状況の中でこう語ったのです。「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける!」(8:17)。この時のアブラハムにあったのも、この信仰ではないでしょう。

Ⅲ. 絶望の中の希望
 物語はイサク奉献というクライマックスに向かって緊張を高めていきます。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見え」ます。そして一行が目的地モリヤに着くと、「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持」ち、「二人は一緒に歩いて行」ったのです。
 モリヤの山が何処かについては諸説あります。エルサレム神殿の岡だとすれば、上り坂は急です。見上げるばかりの坂を二人は押し黙って歩いたのです。そして物語はこれ以後、著しくテンポが遅くなります。しかも語り口はいささか引きずるように、まわりくどくなります。それによって読者は、この歩みの重苦しさを体感するのです。
 運命の時が近づきます。新共同訳はその時の重くるしさを、イサクが発した、「〈わたしの〉お父さん」との呼びかけで訳出しました。わざわざ「わたしの」と付け加えたのです。この呼びかけで始まる父と子の対話は沈黙を破ったのではなく、むしろ沈黙を深めます。イサクは父に、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と問うのです。父は、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答え、会話はそれで中断し、再び深い沈黙が訪れ、それが目的地まで続くのです。

 目的地に着いた後のアブラハムの行動は一つ一つが細部にわたり、恐るべき正確さで語られます。アブラハムは祭壇を築き、薪を積み上げ、イサクを縛り、祭壇の薪の上に置くのです。そして手を伸ばし、小刀を取り、息子を屠ろうとした!まさにその瞬間、「天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びか…(こう)言った(のです)。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』」。
 アブラハムが息子イサクに小刀を振り下ろそうとしたまさにその瞬間、神が介入し、イサクを救い出すのです。ここで私たちは、救いの直前には最大の危機があるという体験をするのです。
 いったい、アブラハムがここで経験したような神体験を、イスラエルにおいて体験した者はいたのだろうか。どのような仕方で、どのような状況でこのような体験がなされたのだろうか。
 語り手(エロヒスト)が生きていた時代、それは、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた時代です。そのアッシリアの魔の手は、南ユダにも迫ります。アッシリアは前721年パレスチナに登場しただけでなく、今度はユダの山地に侵入し、エルサレムを包囲したのです。そのエルサレムを包囲した18万5千のアッシリア軍が一夜にして壊滅するのです(列下19:32−35。イザヤ)。
 このエルサレムの救出は、アブラハムが約束の子に手を下そうとしたまさにその瞬間、神が介入し、イサクを救ったように、救い(それは人間の目に隠されている)の直前には最大の危機があることを教えるのです。

 著者はこの神体験_救いの直前に最大の危機がある_を「主の山に、備えあり」と要約しました。この一句が、この物語のクライマックスです。「ヤーウェ・イルエ(主の山に、備えあり)。」これは、かつてはある地名(イエラエ)を説明する一つの語呂合わせです。しかし、その地名は物語から姿を消し、語呂合わせだけが残されたのです。それによって、繊細で機知に富んだ改変が行われたのです。「神が見る」から「神が自身を見せる」、すなわち「顕現する」となったのです。
 つまり、アブラハムのイサク奉献物語の主題は神顕現なのです。言い換えますと、語り手はこの物語で、ご自身を深く隠される神と、御顔を隠す神に望みをかける信仰を読者に求めているのです。そして、この信仰が最も激烈な仕方で求められたのがゴルゴダのキリストです。マタイはそれを次のように描きました。「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり(ここでも「恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」のです)、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味ある。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』と言(い)……『エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう』と言った。」
 アブラハムがイサクに小刀を突き刺そうとしたまさにその瞬間、神はご自身を現わし、イサクをアブラハムの手から救い出されたのです。しかし、ここゴルゴダの丘では、神のみ腕は現われなかったのです。それほどまでに神は深くご自身を隠されてしまわれたのです。
 ルカは、十字架のキリストを前にして、エマオ途上の二人の弟子に、望みは尽きたと語らせました。十字架のキリストは人間の望みがすべて絶え果てるところなのです。十字架につけられた神キリストは、人間の理想的属性が具現化した愛と憐れみの神ではないのです。人間が作り上げた偶像ではないのです。生ける神なのです。
 それでは、人間の望みがすべて絶え果てる十字架のキリストで、神は私たちの救いのためにいかなる備えをされたのでしょうか。そのことに重要な示唆を与えてくれるのは、国家が滅びるという危機の中で語られた預言者イザヤの言葉です。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。……主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる(マタイはこのイザヤの言葉の成就を、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なるもの者たちの体が生き返った」と証言した)。……見よ、この方こそ私たちの神。……この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(25:6−9)。
 私たちが隠れたる神、十字架のキリストに見るのはこれなのです。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」という、主の晩餐です。
 この救いを喜び踊るペトロの言葉を聞いて、結びたいと思います。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい!」
 神は十字架のキリストにおいてご自身を現されたのです。私たちは十字架のキリストに、万民の救いという神の備えを見たのです。私たちもシメオンのように、主の晩餐でその手にキリストのご聖体を握りしめ、「御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げ」たいと思います。

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