プロフィール

Author:川島隆一
1952年5月20日生
群馬県出身
教団小岩教会牧師


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 「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(マタイ4:11)。

 主イエスはなぜ弟子たちにサタンに誘惑されたことを話されたのだろうか。その理由を推測することは困難ではない。弟子たちもまた主イエス同様、常に誘惑に身を晒していたからである(ルカ22:28)。政治的メシア待望の中にある誘惑は、主イエスの在世時から今日にいたるまで、弟子たちのものでもあった。私たちは主イエスに政治的メシアとしての期待を、つまり人間のための神であることを求めてやまない存在なのである。それはペトロを叱責された主イエスの言葉が端的に言い表している。「あなたは……神のことを思わず、人間のことを思っている!」(16:23)。
 この誘惑に抵抗する弟子たちの力を強めるために、主イエスは自らの体験と誘惑の克服について彼らに語られたのではないか。「これが誘惑物語の背後に隠された歴史的核心であると言ってよいだろう」(エレミアス)。

 それにしても、私たちはこの誘惑に勝てるのだろうか。そのことを黙想していた時、砂漠の修道士の伝説が思い起こされた。
 砂漠の修道士アントニウス(251-356年)は、砂漠の奥深くに分け入り、洞窟の入り口を固く閉ざし、必死に、何ものかの侵入から身を守ろうとしていた。いったい、何ものから! その正体は、彼の眼にはっきりしている。それは欲望という名の悪魔である。暗闇の洞窟で、眠っていた欲望が頭をもたげ、後から後から動きだす。悪魔は男や女や、さまざまな人間の姿をとって、彼の目の前にあらわれる。そんな日々が15年も続いた。最後に残った闘いが、邪淫との闘争である。「いったい、だれが、この悪魔の罠から逃れることができようか?」とアントニウスは述懐する。
 そんなある日、夜を徹した闘争で、心も体もくたくたに疲れ果て、ぼんやりとした意識の中で、洞窟の灯り採りの窓からさし込んでくる一条の朝の光を見る。そのとき、疲労のあまり、死んだように倒れている彼のかたわらに、見えるはずのないキリストの手が、やさしく差し伸べられる。彼は、その手を握りしめると、涙にむせびながら、こう叫ぶ。「主よ! あなたは、勝ち給うた!」
 その瞬間に、フシギが起こる。彼の手の中には、ひとかけらのパンが、しっかりと握りしめられていたのである。正確にいうと、それはもはやパンではない。それは、キリストの〈からだ〉、十字架に釘うたれたキリストの〈聖体〉なのである。

 ボンヘッファーがこんなことを言っている。「教会は恐らく、大都市における聖晩餐を共に守る集まりという状況において、最も確信をもって現われ出るであろう。」わたしにはこのボンヘッファーの言葉は、アントニウスの体験と重なるように思えてならない。
 現代という砂漠を生きる私たちも、この人たちのようにキリストの聖体を手に握りしめることができるのである。主イエスは私たちの罪、荒野の現実をすべて負うて十字架への道を歩み切り、神の国を完成されたのである。ここにだけ“聖性”は実現する。キルケゴールは言う。「ただ宗教的なもののみが永遠性の助けをかりて、〈人間―平等〉を、神的なそれを、本質的なそれを、非世俗的なそれを、真実なそれを、唯一のありうべき〈人間―平等〉を、最後の最後まで徹底的に遂行できるのであり、それゆえに―宗教的なものが真の〈人間性〉なのである。」
 世俗化の中で、人間性が失われてゆくその真只中で、主の晩餐を守る群れが形成されなければならない。クールファイブは歌う。あなたがいれば辛くない、うつむかないで歩いて行けると。しかし、私たちはその“あなた”を見出すことなく生きてきてしまったのではないか。私たちは今もなお、“あなた”を求めて東京砂漠をさまよっているのではないか。

 だれでもキリストを見出すなら、私の荒れ野の真只中に、フシギが起こる。荒れ野と荒れ地が喜び踊り、砂漠が花を咲かせ、命の水が大河となって流れるのである。

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